また、隠棲後の住所については「第に帰す」とあり、第は屋敷のことであり、「帰す」は元の住家に戻ることであるから、高位高官の福信の屋敷が武蔵国にあって、そこから京都へ通勤していたとは考えられない。京都御所のまん前の道路が高倉通りであり、そこに邸宅を構えていたとする方が適切ではないだろうか。
鶴ヶ島町高倉説を最初に主張した人は、坂戸市森戸の大徳氏である。大徳氏の教えを受けた人々もこれを支持している。
ここに高倉論争と題したのは、主張者と反対者が対面して論争したということでなく、鶴ヶ島町高倉説と、その反対説とを併記したにすぎないものである。
福信、鶴ヶ島町高倉居住説
わが村の伝説によると、高倉朝臣の住居地であるという。村の屋敷取りは、十八間が一と屋敷分となっている。陣屋ヶ原の十八間四方の土塁は、奈良朝の制度である。高倉池の中島が二つあるが、これは近江守だった福信が、琵琶湖を模したものである(有隅豊吉『武蔵野研究』六―七号)
反対説
高倉は福信の生地なりと、その証として挙ぐるもの、甚だ不可なるもの多し。
高福寺 福信の菩提寺で、その姓と名の頭文字を取って名づけたというが、江戸初期の創立である。
不動の仏画 福信の守り本尊だという。この仏画は古いが、名画とも思われない。また、福信の頃に不動の仏画が行われたかどうかは分らない。
福信の古墳 郡内に古墳が沢山あり、しかも、非常に大きいのもあるが、そんなものでも、誰の墓なのか知れないのが普通である。
板碑 高福寺墓地に、貞治四年(一三六七)の板碑ありというが、南北朝時代の板碑は、郡内至るところにある。
日枝神社勧請説 福信の時代と、延暦寺および日枝神社全盛の時代とを転倒したものである。高倉村が古代は大村で、屋敷と称する小字があり、人家の区画が整っていること、そんなことは徳川時代の諸村では珍らしいことではない。
高倉村の創立はとうてい福信時代とは思えない。室町時代の頃であろう。 (安部立郎『入間郡誌』)
福信説の防衛と激励
余が亡父、かつて一度、高倉説を唱えしより、すでに幾十年の春秋を過ごし、父死して子未だ志を果たさず。されど多年の考証研覈(けんかく)、今や戦略全からんとす。安部が堅塁奪取も敢(あえ)て難(かた)からざらんや。貴下その司令部たれ。余はその参謀となりて、堂々旌旗(せいき)を進めて、以て福信公の霊を地下に起こし、而して真個の高倉説の成立するは、期して持つべきことと思う。彼れ小林、一度怪弁に失脚して、遂にそのままとは。高倉の人士として、地下にある福信公の霊に対して何の顔あって、徒(いたず)らに衣食するを得んや。奮起以て祖先の功徳を永遠に称揚せずんばあるべからずと思う。ここに一書(※註)を呈す。
〔註〕
大徳周乗氏の書翰。同氏の控え帳による。大正一五年二月一二日の日付がある。
この件について私見を述べると次のようである。
伝説については、大徳氏の亡父周応氏が唱え始めたもののようで、『新編武蔵風土記稿』を見ても、このような重要な伝説を載せていない。仏画の不動尊は最近鑑定の結果、古くはあるが鎌倉時代の作で、平安末期以上さかのぼるものではない。従って福信の遺品ではないということである。また、福信の墓地である廟所があるといっているが、最近発掘してみると中世末期の墓址であった。小川鶴吉家文書によると、
一下々畑六畝弐拾六歩 名所御水帳の通り
右は前々より、本家長三郎方にて所持致し候畑の内廟所に致しおき候ところ(略)このたび一同相談の上、九右衛門並びに仁平次・代助、右分家三人の者どもより、それぞれ地代金差出し候上は、以来四人持ちに致し、右地面の内に葬らせ申すべき筈
という契約書が残っており、廟所とは名主小川家の墓地であることが分る。それに、福信の古墳を造成した上に、別に離れた場所に廟所を設けるというのも不思議な葬制である。
要するに、大徳氏の主張は、先に結論があり、それを証明するために、宗教的信念で、手がかりになるものは何でも福信の遺蹟だと寄せ集めているようにみえる。それだけの史料では、結論はまだ早すぎるのである。