奈良朝時代には法相(ほっそう)宗の道場であったが、南北朝の頃になって、僧秀海が山城国醍醐山で修業して、帰山すると真言宗に改宗した。そして、第二五世園真の時代になって、本尊を不動明王にした。これまでの歓喜天は別檀に移した。
聖天院の本堂は、寛永年中の建築であるが、奈良時代に草創されたときの本堂の位置については、さまざまの異説がある。
寺島裕氏は、この本堂はもと前方の畑の中にあったのを、寛永時代に現在の山麓に移築したのであり、この敷地は若光時代には、その住居地であったのではないかと推測されている。
『高麗郷土史』の著者加藤喜代次郎氏は、高麗本郷の台地付近を推定し、若光の居住地も、日和田山麓であり、若光がかつて使用した井戸が〝井戸神〟という地名で残っているという。この推定の根拠は、いずれも高麗本郷は郡家(ぐうけ)の所在地であり、郡司として移住した若光は、当然、本郷に居住地を定むべきだということである。
※ 聖(しょう)歓喜天の略。聖天ともいう。元は、人の虚に乗じて、障害をする鬼神。転じて仏教の守護神。双身像は、男天が魔王、女天は十一面観音の化身で、抱き合う。祈れば富貴を与え、病を除き、夫婦和合、子を与える。