しかし、それ以前にも渡来人はすでに移住していたのであった。
関東地方の渡米人関係年表は大略次の通りである。
年号 | 西暦 | 事項 |
六世紀以前 | 武蔵国の屯倉(みやけ)(朝廷直轄領)を掌る者の中に渡来人がいた。旧神代村の大半、三鷹市・武蔵野市・川崎市の一部に高句麗人がいた。 | |
川原氏(漢人系坂上氏)が常陸国の国宰(さい)(国司)となる。 | ||
推古三六年 | 六二八 | 土師臣真中知(はじのおみまつち)とその臣の檜前(ひのくまの)浜成・竹戊らが、浅草で黄金像を網にかける(縁起)。檜前氏は漢人(百済経由の漢人)。 |
天智五年 | 五五五 | 百済人を東国に移す。 |
〃 七年 | 六六八 | 福信の祖父、背奈福徳が波来す。 |
天武一三年 | 六八四 | 新羅人羊大夫来朝す。 |
百済僧尼及び俗人、男女二三人を武蔵国に安置す。 | ||
持統元年 | 六八七 | 常陸国に高麗人五六人を居らしむ。 |
下野国に新羅人一四人を居らしむ | ||
武蔵国に新羅の僧尼・百姓、男女二二人を居らしむ。 | ||
〃 三年 | 六八九 | 下野国に新羅人を居らしむ。 |
下野国那須国造(くにのみやつこ)那須直韋提(あたいいで)、評督(郡司)を賜う。 | ||
碑を建て、墓誌を記す。 | ||
〃 四年 | 六九〇 | 武蔵国に新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら一二人を居らしむ。 |
下野国に新羅人らを居らしむ。 | ||
和銅四年 | 七一一 | 上野国に多胡郡を新設。碑を建て記念す。 |
霊亀二年 | 七一六 | 武蔵国に高麗郡を新設。 |
天平五年 | 七三三 | 武蔵国埼玉郡の新羅人徳司ら五三人、金の姓を与えられる。 |
〃 一三年 | 七四一 | 国分寺建立の詔下る。関東の国分寺より渡来人関係の文字瓦出土。 |
天平宝字二年 | 七五八 | 武蔵国に新羅郡を新設。 |
〃 四年 | 七六〇 | 武蔵国に新羅人一三一人を置く |
天平神護二年 | 七六六 | 上野国の新羅人子牛足ら一九三人に吉井連(むらじ)の姓を賜う。 |
宝亀二年 | 七七一 | 武蔵国は、東山道より東海道へ転属さる。 |
〃 一一年 | 七八〇 | 武蔵国新羅人、沙羅真熊(さらのまくま)ら二人に広岡造の姓を賜う。 |
(今井啓一「帰化人の来住」に一部追加) |
この表で見るように、奈良時代までに、おびただしい渡来人が定住している。しかしこれは関東だけである。初めは渡来人の高度な知識や技術を学ぶために、畿内およびその周辺に配置したので、その地域における渡来人の戸数は莫大なものであった。平安初期に朝廷で編纂された『新撰姓氏録』によると、左京・右京、そして畿内、すなわち、山城・大和・摂津・河内・和泉の五か国だけで、全体で一、〇五九氏のうち、渡来人系は三二四氏を数え、ほぼ三〇パーセントの多きを占めている。畿内では三人に一人が渡来人系であるわけである。地方の農民層では、その比率は幾分かは下がるであろうが、その時代から千数百年もたっている。その間に縁組みが幾重にも重ねられて、今ではすっかり同化してしまって、区別はなくなっている。われわれ一人一人の血は、古代の渡来人の血を一〇パーセントか二〇パーセントぐらいは受けついでいると考えざるを得ない。