第八節 関東地方の渡来人

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 大陸や半島からの渡来人の配置状況については先述の通りであり、七世紀以降は朝廷の方針変更のため、未開地の多い関東に安置されるようになったのである。
 しかし、それ以前にも渡来人はすでに移住していたのであった。
 関東地方の渡米人関係年表は大略次の通りである。
年号西暦事項
六世紀以前武蔵国の屯倉(みやけ)(朝廷直轄領)を掌る者の中に渡来人がいた。旧神代村の大半、三鷹市・武蔵野市・川崎市の一部に高句麗人がいた。
川原氏(漢人系坂上氏)が常陸国の国宰(さい)(国司)となる。
推古三六年六二八土師臣真中知(はじのおみまつち)とその臣の檜前(ひのくまの)浜成・竹戊らが、浅草で黄金像を網にかける(縁起)。檜前氏は漢人(百済経由の漢人)。
天智五年五五五百済人を東国に移す。
〃 七年六六八福信の祖父、背奈福徳が波来す。
天武一三年六八四新羅人羊大夫来朝す。
百済僧尼及び俗人、男女二三人を武蔵国に安置す。
持統元年六八七常陸国に高麗人五六人を居らしむ。
下野国に新羅人一四人を居らしむ
武蔵国に新羅の僧尼・百姓、男女二二人を居らしむ。
〃 三年六八九下野国に新羅人を居らしむ。
下野国那須国造(くにのみやつこ)那須直韋提(あたいいで)、評督(郡司)を賜う。
碑を建て、墓誌を記す。
〃 四年六九〇武蔵国に新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら一二人を居らしむ。
下野国に新羅人らを居らしむ。
和銅四年七一一上野国に多胡郡を新設。碑を建て記念す。
霊亀二年七一六武蔵国に高麗郡を新設。
天平五年七三三武蔵国埼玉郡の新羅人徳司ら五三人、金の姓を与えられる。
〃 一三年七四一国分寺建立の詔下る。関東の国分寺より渡来人関係の文字瓦出土。
天平宝字二年七五八武蔵国に新羅郡を新設。
〃 四年七六〇武蔵国に新羅人一三一人を置く
天平神護二年七六六上野国の新羅人子牛足ら一九三人に吉井連(むらじ)の姓を賜う。
宝亀二年七七一武蔵国は、東山道より東海道へ転属さる。
〃 一一年七八〇武蔵国新羅人、沙羅真熊(さらのまくま)ら二人に広岡造の姓を賜う。
(今井啓一「帰化人の来住」に一部追加)

 この表で見るように、奈良時代までに、おびただしい渡来人が定住している。しかしこれは関東だけである。初めは渡来人の高度な知識や技術を学ぶために、畿内およびその周辺に配置したので、その地域における渡来人の戸数は莫大なものであった。平安初期に朝廷で編纂された『新撰姓氏録』によると、左京・右京、そして畿内、すなわち、山城・大和・摂津・河内・和泉の五か国だけで、全体で一、〇五九氏のうち、渡来人系は三二四氏を数え、ほぼ三〇パーセントの多きを占めている。畿内では三人に一人が渡来人系であるわけである。地方の農民層では、その比率は幾分かは下がるであろうが、その時代から千数百年もたっている。その間に縁組みが幾重にも重ねられて、今ではすっかり同化してしまって、区別はなくなっている。われわれ一人一人の血は、古代の渡来人の血を一〇パーセントか二〇パーセントぐらいは受けついでいると考えざるを得ない。