1 三つの文献資料

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 この広大な地域を占め、豊富な遺構・遺物を内蔵した若葉台遺跡群について、その実体は何であろうか。入間郡の郡衙のあとであるのか、それとも地方豪族の屋敷あとか、或は初期荘園の荘家であるのか、今もって定説というものはない。謎に包まれた遺跡群である。このさい、この遺跡群の本来の姿を探索するため、奈良朝末期から、平安朝初期にかけての文献に現われる入間郡の重要な記事を次に並べてみよう。
(一) 神護景雲三年(七六九)に、入間郡の人、大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)なる人物が、奈良西大寺に商布(※1)千五百段、稲七万四千束、墾田(こんでん)(※2)四〇町、林六〇町を寄進し、その功績を賞して、宝亀八年(七七七)六月五日に、外(げ)従五位下(※3)を追贈された。(『続日本紀』巻三四)
 もっとも、宝亀八年は神護景雲三年から八年たっており、位階の昇進は彼の死後である。とにかく、これだけ莫大な財物を寄進できる地方豪族が入間郡にいたわけである。
 ※(1) 古代に、調・庸にあてないで、商品用として織った布(ぬの)。
 (2) 律令制時代に新たに開墾した田地。

 (3) 律令制時代に、五位以下は、内位と外位(げい)(地方豪族出身)の区別があった。

(二) 赤男が墾田と林を寄進した神護景雲三年から二年たって、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日には、西大寺の資財として、次のような図面と帳面が保存されていた。
一巻 武蔵国墾田文図 宝亀九年 在国印

一巻  同  林地帳 宝亀九年 在国印

 また、田園山野図として、
武蔵入間郡榛原(はいはら)庄一枚 布 在国印

がある。これらの墾田・林・荘園は、いずれも国印を受けている。これは、つまり、武蔵国の国司から出された不輸租(租税の免除)の許可状を受けているということである。(「西大寺資財流記帳」)
 この榛原庄について、西岡虎之助氏は同寺の封戸(ふこ)二五〇戸が荘園化したものだろうという(『荘園史の研究』下)。また、その位置については、『埼玉縣史』は「報恩寺年譜」に記載する「春原荘広瀬郷」の春原荘が榛原庄と同一だとして、広瀬の付近である旧水富村を比定している。
(三) (一)と(二)は奈良朝の記録であるが、それから四一八年たった鎌倉時代になると様相は一変した。建久二年(一一九一)五月一九日の「注進 西大寺領諸庄園現存日記ノ事」という事書(ことがき)がある。その記事を見ると、西大寺には四六か所の荘園があったのだが、そのうち九か所は国司に収公されたり、地方豪族に押領されたりして、今は有名無実だという。その次に「顛倒(てんどう)庄々」という項目がある。これには、かつては西大寺領であったが、今では失われてしまった荘園を列記してある。そのなかに「武蔵国入間郡安堵(刀)(あと)郷栗生(くりふ)村田四〇町 林六〇町」が記載されている。(「西大寺文書」)
 この田と林とは、大伴部直赤男が寄進した墾田・林と符合するものである。
 今までの記述は要するに、
(一) 宝亀八年(七七七)の『続日本紀』巻三四、武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男が墾田四〇町、林六〇町歩その他を西大寺に寄進して、死後、外従五位下を追贈された。
(二) 宝亀一一年(七八〇)には、不輸租の国印をもらった寄進地を資財帳に書きとどめた。
(三) 鎌倉初期になると、入間郡安堵(刀)郷栗生村の荘園にある田四〇町・林六〇町歩は顛倒して、西大寺の所領ではなくなっていた。