次には、以上の資料をもとにして、安堵(刀)郷栗生村の所在を考えねばならぬ。
これには大図口承氏の綿密な考察の結果が発表されている。氏によれば栗(くり)は粟(あわ)の誤記である可能性が大きいとされている。もし誤記とすれば、本来は粟田であるが、入間郡内には粟田という地名は見当たらない。これは坂戸市粟生田(あおた)をさすものであろう。ところが氏は、これを短絡的だとして、安刀郷そのものの考察を進めている。承元四年(一二一〇)の「小代行平譲状」に、「あと川」という川があり、高麗川が粟生田の北端を東へ曲流し、吉田と粟生田の境界を流れ、片柳耕地を貫流して赤尾村の南境を東流していたのが〝あと川〟であるという。また、坂戸市内に厚川(あつがわ)という地名があるが、これもアトガワがアツガワに変化したものではあるまいかと考察する。
吉田東吾の『大日本地名辞書』では、川越市上戸(うわと)は安刀の訛(なま)りだとして、上戸・的場(まとば)・三芳野(みよしの)などの入間川西岸の諸村を安刀郷に比定している。しかし、大図氏は、発音が似ているというだけでは説得性が弱いとして、この説を退けている。
とにかく、大図氏は諸説を参照のうえ、綿密な考察を加えているが、安堵郷栗生村が坂戸粟生田であるという断定をしているわけではない。(「古代安刀郷に関する一考察」坂戸風土記第四号所収)
次に、山下守昭氏の説を紹介する。
若葉台遺跡から出土した遺構・遺物は、第二編第五章で発表された通りであるが、注目すべきは住居址一三六戸、掘立柱建物址九七棟(昭和六〇年現在の状況)と、庶民の使用したとは思われない遺物群が含まれていることである。これらの発見に着目して、山下氏はこれは初期荘園のあとであろうと推察した。(「若葉台遺跡について」若葉台遺跡シンポジウム所収)
初期荘園を文献で調べてみると、次のようである。天平一九年(七四七)の法隆寺の荘については「合処々庄、四十六処、合庄々倉八十四戸、屋百十一戸」とあり、同年の大安寺の場合も庄一七か処に倉二六戸、屋三四戸とで構成されている。これをみると、荘(庄)とは数戸の倉あるいは屋の集合地帯であり、それらの倉および屋の建物を中心にして、それに幾らかの園地が付属した一地域をさしているのである。そして、倉と屋とは初期には役割としては区別はなかった。しかしのちになると、倉は年貢米以下の雑物を収納する倉庫が専門となり、屋は墾田と統轄する事務所となった。(安田元久『日本荘園史概説』)
以上、大図、山下両氏の主張を紹介したが、安堵郷が坂戸市周辺に存在し、若葉台遺跡が西大寺領荘園の中枢部であるとすれば、「西大寺所領注文」にある安堵郷栗生村の田四〇町・林六〇町のほかには倉と屋とで構成されているわけであるが、これは若葉台遺跡発掘の結果と一致する。もっとも、山下氏の主張するのは、この遺跡は安堵郷栗生村ではなく、入間郡榛原庄だろうというのである。