1 古代入間郡と神火

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 とはいえ、この遺跡が郡衙遺構であるという可能性も全く否定することはできない。その根拠は、大伴部直赤男の姓(かばね)と、その莫大な富である。直(あたい)という姓は、大化前代には国造(くにのみやつこ)か品部(しなべ)の管理者という名族に賜われたものであり、郡司の任用は譜代の名族が選ばれたからである。また当時の厖大(ぼうだい)な財物寄進者には、大領とか少領とか郡司が多くみられるのでも推測される。
 大山誠一氏は「武蔵国入間郡の神火をめぐる諸問題」(『日本古代の社会と経済』下巻所収)で、大伴部直赤男について次のように述べている。もっとも、赤男は前述の条件から入間郡司と推定することが前提の上である。
(一) 彼が厖大な寄進をしたのは神護景雲三年であったが、その同じ年に入間郡の正倉(しょうそう)四棟に火がついて、糒(ほしいい)、穀(もみ)などすべて一万五百十三斛(こく)余が焼失した。そればかりではなく、正倉周辺にいた百姓一〇人が急に重病となり、二人が頓死するという事件が起こった。
(二) その火事の原因は、神の祟(たた)りであったと国司の報告書が都の太政官(だじょうかん)に届いた。
(三) 神の崇りというのは偽りの報告で、真実は、正倉の中は空(から)っぽで、郡司が虚納をかくすためにそのような報告をしたのだ。
 その虚納をかくすために正倉に放火したのが、入間郡司赤男だと大山氏は推測する。以下その話をつづけよう。
 赤男らは謀議をこらし、結論として、官物を損失することで罰せられるよりも、各地で流行している神火で燃えてしまったということにして、現状をごまかそうではないかと決定した。しかし、そういう報告をすると郡司の役は免職になるかも知れない。それは覚悟の上としても、子孫にわたって郡司たる家の資格を剥奪されるかも知れない。思案の上考え出したのが、西大寺に対する寄進であった。当時の道鏡政権が仏寺建立を優先しながらも、経済的には弱体であることに目をつけ、西大寺に対する大量の寄進をすることによって、譜第の地位喪失を防ごうとしたのであった。
 このような推理の結果、赤男が入間郡司であり、神火事件の張本人でもあり、そのなかから大量寄進の意図を割り出したのであった。
 それでも、郡家の位置の問題が解決したわけではない。国司の報告書のつづきを読んでみよう。
 卜占(うらな)ってみますと、郡家(ぐうけ)の西北の角(すみ)に鎮座する出雲伊波比神(いずもいはひのかみ)が崇(たた)って、こういっているというのです。
「われは常に朝廷(みかど)の幣帛(みてぐら)を受けるはず。しかるに近年、朝廷は奉幣(ほうへい)を怠っておる。よって郡家の近傍にいる雷神たちを呼び集め、この火災をおこしたのである。」

 そこで部下の者に調べさせてみますと、たしかにこの神社は、朝廷の幣帛を受けるべき神社なのに、近年それを受けていません。よろしく調査のうえ、善処をお願いいたします。
 太政官が調査してみると、なるほど入間郡の出雲伊波比神社は、一六年前の天宝勝宝七年以来、幣帛にあずかる神社として指定されているのに、近年それを行なっていないことがわかった。そこで太政官は宝亀三年一二月一九日に神祇官に対し、次のように命令した。
「勅命により、従来の規定どおり、きちんと奉幣を行なうように命令する」

 この神火事件の原因については、政府は初めのうちは国司の報告をそのまま信じていたようであるが、度重なるうちにその真相がわかってきた。神火というのは、国司と結託した郡司が、検査を恐れて虚納をかくすために放火したのである。帳簿の上では正倉に納入の記載があるが、実際は他に流用して、倉庫内は空っぽであった。