3 新たに出された郡衙説

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 ところが最近発掘された所沢市久米の東の上遺跡が入間郡衙跡ではないかという説を、早稲田大学所沢文化財調査室の市毛勲氏が発表された。
 「布堀(ぬのぼり)」工法跡や墨書土器・硯(すずり)などが出土したのを前提にして、東の上遺跡が郡衙跡にふさわしいとする条件を列挙している。その条件としては、
(1)郡衙は、交通便利で平坦な台地であること。
(2)郡内で一番国府に近い場所に位置すること。
(3)郡役所の建物が整然と並び、大きな柱穴や、基礎工事跡が残っていること。
(4)役人が書いたもの―郡衙を示す墨書土器や木簡―があるはずである。

 なおまた、同氏は出雲伊波比神社の位置が明らかになれば、その東南に入間郡衙を推定することができるとして、出雲伊波比神社を検索する。そこで先ず、入間郡安刀(あと)郷から始まる。『埼玉縣史』では安刀郷の比定地は所沢市本郷・久米・北野の地域一帯で、これを郡家郷におきかえてみると、東の上遺跡はその中心になり、そして西北四キロに北野天神社、出雲伊波比神社も西北八キロにある。従って郡家郷の西北角の神として最も妥当するのは、北野天神社境内の出雲伊波比神社および宮寺の出雲祝神社ということになる。(「入間郡衙位置考」・「再び入間郡衙位置考」)
 こう推定して、氏は東の上遺跡が入間郡衙である可能性が強いと主張する。しかし、これを読んで疑問と思われるのは、次の諸点である。
(一) 若葉台遺跡については、その西北に当る神社は一つも見られない、東の上遺跡の西北には出雲祝神社があるというが、この神社の所在地の宮寺南中野は西北ではなく西方に位置している。
(二) 毛呂山の出雲伊波比神社はもとは飛来神社と称したが、権田直助の強い主張によって、この神社名に改称したという。しかし、宮寺の出雲祝神社も元は寄木明神と称していたが、出雲伊波比神社であろうとする説が出て、改称したのであった。そうすると、神社の位置から郡衙を決定するのはやはり無理ではないか。遺跡が確認された上で、神社の性格が決定されるのであろう。
(三) 高麗郡は、建郡当初は高麗郷と上総郷(かみつふさ)の二郷よりなる小郡であり、近世のように広い面積を占めるものではなかったことが考慮に入れていなかったのではなかろうか。
 
 とにかく、若葉台遺跡が初期荘園の荘家であるのか、郡衙跡であるのか、出雲伊波比神社の方角だけでは解決できない。現在も引きつづき行われている発掘調査の結果、いずれかの証拠となる有力な遺構・遺物の発見を待つのみである。