第三章 武蔵七党

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 平安朝末期には、武蔵国に幾つかの党と呼ばれる武士団ができていた。党というのは、武士の集まりである。党の特徴は共通の先祖をもち、そこから分れた幾つかの家々が、血がつながり合って、一族・同族だという気持をもって、行動を共にすることであった。しかし、すべての党が同じ性格をもっているわけでもなかった。
 その家の家筋、つまり、本家(惣領家)の地位が、分家(庶子家)にくらべて高く、庶子家に命令を下し、戦争の場合は惣領家の主人が総大将となって、一族の指揮をとるという、一族のまとまりの強いものもあったし、また、本家・分家の関係があまり明白でなく、従って家々の関係がわりあいに平等であるような性格のものもあった。この二種類の党のうち、以下述べるような武蔵七党といわれた武士団は、家々の関係が平等な性格をもつ党であった。
 ところで、このような武士団が成立したのは、どのような事情にもとづいたのであろうか。
 その一つは、東国では律令政治がゆるみ、社会秩序が失われてしまっていたことである。早く貞観(じょうかん)三年(八六一)には、武蔵国は「凶猾(きようかつ)(悪くずるい)党をなし、群盗山に満つ」という状態であった。承年・天慶年間には、平将門の乱(九三五―九四〇)があって坂東地方は大きくゆれた。その平定後も秩序は恢復せず、天暦(てんりゃく)年間(九四七―九五六)に進むと「凡そ坂東諸国、不善の輩、所部(国内)を横行(おうこう)し、道路の間、物を盗(と)り人を害す。かくの如き物怱(ぶっそう)、日夜絶えず」(『朝野群載』)という乱世の様相を示した。そして、「凶党の輩(ともがら)」とか「暴戻(ぼうれい)(荒荒しい)の類」が絶えず現われた。
 そうかと思うと、「一方では国司が押領使を兼帯し随兵をもって国内の治安に当りながら、一方ではその国司や随兵・郎等が隣国に越境して、その治安を乱す」ことがしばしばであった。
 今一つは、この東国に境を接する奥羽(おうう)の地には、中央の政府の方針に従わぬ蝦夷(えみし)が住みついていた。蝦夷平定という課題は、代々の朝廷の大問題であったから、しばしば軍隊が派遣された。その戦力の大部分は東国で動員されたものであった。それで東国の住民は戦闘に従事する機会が多かった。
 このような環境だから、そこに武力が重んじられる気風が生まれ、武力に値うちを認めるような生活態度が生じたとしても、無理からぬことであった。
 更に、一二世紀後半は、この地方の大開拓時代であったことである。葦(あし)や真菰(まこも)の生い茂る大平原、馬に乗った武士の弓さきまで隠れるほど草深いこの辺境地帯で、今や非常な勢いで開拓が進行していたのである。この開拓事業こそ、武士団を成立、成長させた真の原因であった。
 彼らは空閑地を選定し、国府の政庁に願い出て開墾の許可をうけると、家人・郎党などの従者や下人、更に放浪中の百姓などを集めて開発団を組織する。開発の根拠地として適当な地点を物色して、先ず館を建て、堀を開き、耕地を造成する。その作業に使用された農民たちは、そのうちに田畑を与えられて、住みつくようになるのである。
 新たに農場主となった者たちは、すでにこの地方に根を下ろし、国府や郡衙(ぐんが)に勤めて在庁官人の地位を確保している地方豪族かその縁故者たちであった。彼らは、開発許可を得るにも、耕地造成のため用水を獲得するにも、作業に必要な労働力を集めるにも、すべての点で官人の特権や、地方豪族の実力が大きくものをいった。そして、成立した農場を守るためにも農場主の実力は欠くことができなかった。灌漑用水を整備することは先ず第一の事業であったし、特に低湿地域では堤防を築き、排水工事に努力することも最も重要な仕事であった。これらの事業遂行は官人の特権や豪族の実力なくしては遂行できなかった。
 また、せっかく完成した開墾地を国司の干渉・支配から免れる工夫も考えなければならなかった。そのためには、国司より更に大きな権力をもつ中央の貴族や社寺にその土地を寄進し、その保護を受けて、権力者を領家と仰ぐ荘園とすることであった。その荘園は、国司に租税を出さなくてもよい「不輸(ふゆ)」の権利や、国司の派遣した検田使の立入りを認めない「不入(ふにゅう)」の特権を与えられることが多かったのである。そして、寄進した開墾者は、領所(あずかりしょ)・下司(げす)などと呼ばれる荘官(しょうかん)になるのであるが、荘官は一度の年貢を領家に送るだけで、実質的には土地の管理者・支配者は荘官であった。畠山荘司重忠という如きである。
 しかし、荘園の寄進が盛んになり、国衙領の面積が減少しても、当時の国府政庁の勢力はまだまだ強大なものであった。いったん荘園になったとはいっても、国司の権限でいつ取消されるかわからなかった。
 それで、国府政庁との結びつきを利用して開墾地を増(ふ)やしていった武士たちは、荘園をたてたあとでも国府との関係をつづけ、在庁官人としてとどまっていた。国府官人と荘園の管理人という二重の資格をもつことは、当時の武蔵武士の通例であった。