児玉党 武蔵守となった有道惟行を祖とし、児玉郡をはじめ秩父・比企・入間の諸郡に分布し、庄・四方田(よもだ)・小代(しょうだい)・越生(おごせ)・塩谷・秩父などの諸家がこれに属する。
野与党 八平氏の一家、平良文の子孫と称して、埼玉郡の古利根川の流域に分布した。鬼窪、栢(かや)間・多賀谷・笠原・白岡・渋江などの家がこの党に属すという。
村山党 野与党の一族と称し、多摩郡村山地方を根拠地とした。県内では入間郡に分布し、大井・山口・須黒・広谷・仙波・金子・難波田(なんばた)などの家がこの党に属した。
丹党 丹治(たんじ)氏の一族相継いで武蔵守に任じたので、秩父・児玉の両郡を開墾し、所領が多くなったので土着し、丹氏を名乗ったという。児玉・秩父・比企・入間の諸郡に広く分布した。中村・塩谷・大河原・小鹿野・横瀬・安保(あぼ)・高麗・加治・中山など数は多い。
横山党 小野篁(たかむら)の子孫と称し、小野牧の別当であった。その一族は多く東京都から神奈川県にかけて分布したが、本県では大里・埼玉両郡に分布した。成田・中条・箱田・奈良・田谷(たがや)・別符(べっぷ)・玉井・矢古宇(やこう)など七〇余氏があった。
猪股(いのまた)党 横山党の支族と称し、武蔵権守義孝の弟時資が武蔵介となり、その子時範が猪俣(児玉郡美里村)に居を構えた。猪俣・藤田・人見・岡部・男衾(おぶすま)などの諸家がこれに属した。
西党 日奉連(ひまつりむらじ)から出たという。代々武蔵国の在庁官人となり、由比・小川などの牧を管理し、百草・岡戸・日野・立川一帯を本拠とした。府中の西に分布したので西党という。西・長沼・上田・小川・稲毛・平山・二宮などの諸氏に分れていた。
以上の七党であるが、野与・村山両党の代りに、綴(つづら)・私市(きさいち)の両党を入れる場合もある。別に、長井・熊谷・足立の諸家があって、七党の間に介在して、勢力を扶植した。
これらの中小武士団が、関東平野せましとばかり乱立した。武士団はそのほとんどが国司の子孫だといっているが、その点については信ずべくもない。武蔵七党のそれぞれについても『武蔵七党系図』というものがあって、一応もっともらしく先祖からの系図が記されているが、どうもあまり信用できないというのが通説である。七党系図に載せられた姓は、系図と一緒に作られたものらしいといわれる。同じ地域に住みつき、長い年月のあいだ共同生活を営んでいるうちに、一族同様の親近感を抱くようになり、更には自分たちの間柄を、共通の先祖から分れたものと考えるようになり、互いに血のつながりがあるように思いこんで、党の団結をいっそう強めるようになったのであろう。
これらの「党」を結ぶ武士団と離れて、一段と勢力のあったのは秩父から出た一族である。この一族は秩父から出て、荒川・入間川に沿って、次々と下流地域を開発し、畠山氏・江戸氏・豊島氏・葛西氏をおこし、武蔵国府の有力な在庁官人の地位を、一族で相伝していたから、いざというときには「武蔵七党」の武士をも動員できた。
以上の中小武士団に較べて、ぐんと大きい武士団は、武蔵国を取巻く関東の大武士団である。三浦半島の要衝を占める三浦氏、利根川下流の広大な土地を開発しながら勢力を伸ばした千葉氏、上野の新田氏、下野の足利氏・小山(おやま)氏などである。この武士団は、広大な沃地を開発して、数千町歩に及ぶ大所領を経営していた。それで、いざ戦いとなれば数百騎以上の兵力を動員できる勢力をもっていた。
この二つの性格の異なる武士団は、ともに源氏の棟梁に従って戦場に活躍した。治承四年(一一八〇)伊豆の流人・源頼朝のもとに集まって、天下を平定したのは、この東国の二つの系統の武士団であった。
図3-4 鎌倉街道と武蔵武士団の分布