第二節 児玉党と小代(しょうだい)氏

176 ~ 179
 武蔵七党のうち郷土に深い関係をもつ児玉党を取上げて記すことにしたい。
 児玉党
 この党の先祖は有道(ありみち)氏である。始めは大部(おおべ)氏であったが、大部氏道のときに有道の宿禰(すくね)の姓を賜わったので、有道氏と改めた。有道刑部丞(ぎょうぶのじょう)(刑部は刑罰を掌る官庁、丞は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)とつづく四等官の第三位)維広(これひろ)は関白藤原道隆の家司(けいし)(高貴な家の事務官)となった。その次男維能(これよし)は道隆の子、内大臣藤原伊周(これちか)に仕えたが、のちに武蔵介(すけ)となって武蔵国に下向し、児玉郡を開墾して、ついに土着した。その子維行(これゆき)は有貫首(かんじゅ)(かしらだつ人・統領)と称し、武蔵守となったが、任満ちても帰らず、父祖の地に住んで児玉氏と称した(八代国治・渡辺世祐『武蔵武士』)。
 また、七党系図や小代氏の系図によると、関白藤原道隆の子に伊周(これちか)があり、その子の有道遠峰が武蔵守となって有貫首と称した。その子有大夫弘行の時代となって、一族繁衍(はんえん)(しげりはびこる)したのだという。

図3-5 児玉党略系図
(武蔵七党系図による)

 この伝承はいずれにしても、有道氏が藤原氏の勢力を借らんとして、児玉庄という庄園を当時勢力のあった大臣家伊周の所領として寄進し、自分はその庄司となって、この庄園を支配し、ついには、その本家の姓を勝手に自分の姓としたのであろうと、『武蔵武士』の著者は主張している。しかし、児玉党に系譜をもつ子孫は、家伝として藤原氏を名乗っている。
 石井進氏の『中世武士団』によると、『尊卑分脈』などの有力な藤原氏系図のどれにも伊周(これちか)の子に維能(これよし)や遠峰という人名を発見することができない。鎌倉時代の古文書は小代氏はみずから有道(ありみち)氏であるとは記しているが、藤原氏とは称しておらず、まして伊周の子孫とはいっていない。小代氏のばあい、道隆・伊周の後裔(こうえい)でないことはまず明白である。ただ一説には、維能が伊周に仕えたともいうように、北武蔵の豪族で牧の管理にも携わっていた有道氏が、中央の有力者であった伊周に臣従し、のちに系図までその後裔と主張した、ということならば大いにありそうなことである。
 系図上は、中世武士団のほとんどが、中央貴族の後裔や落胤が地方に下って豪族となり、武士となったように記してあるからといって、それをすぐに客観的事実だと速断することはできないのである。
 小代氏
 次に小代氏についてみてみよう。先祖以来の由緒を記した「小代文書」によると、有道遠峯(惟行(これゆき))の子で、行平の曾祖父にあたる有大夫弘行については次のように述べている。もっとも、この文章の初めの部分が欠けているが、平安後期、永保三年(一〇八三)から寛治元年(一〇八七)までの「後三年の役」に、児玉弘行が源義家の副将軍として参加した記事である。
 副将軍として朝敵を追討した次第は絵図面に書いてある通りである。奥州征伐ののち、有大夫弘行と有三別当経行(つねゆき)は、武州児玉郡を屋敷(※註1)として居住した。児玉の先祖代々、君のために忠勤を励んだことは諸家の記録にも載せられているから、世に隠れもないことである。また、右衛門佐(すけ)(平賀)朝政(ともまさ)が、関東の代官として駐在していたとき、蓮花(れんげ)王院(京都の三十三間堂)の宝蔵に秘蔵されている絵を拝観したのだが、それには奥州後三年の合戦(※註2)の次第を書いてあった。そのなかで、関東八か国の人々はみな、大庭(宮殿前の広場)に敷皮をならべて居並んでいたが、八幡太郎義家の朝臣(あそん)は大将軍として屋形(やかた)(貴人の宿所)の中においでになっていた。児玉の有大夫弘行の朝臣は、副将軍として同じ屋形のなかで、赤皮の烏帽子(えぼし)をかけて、八幡殿の御対座(向いあってすわる)に書いてあった。それを平児玉(※註3)の倉賀野八郎公行がその場に居あわせて拝見した。その後、関東の人々が内々相談して、秘計をめぐらし、有大夫弘行の名を消して、別人の名に書きかえたような風聞がある。副将軍でなかったら、八幡殿の御対座に書かれるわけがない。不思議なことに書きかえられることもあるものである。されば、児玉党のなかに蓮花王院の宝蔵の絵を拝見するものがあれば、風聞のように絵図の名が書きかえられていたら、奏聞(天子に申し上げる)して儒者に仰せ下されて、もとのように有大夫弘行の名に書き直させ奉るべきものである。(大石真麿「肥後古記集覧」所収)


図3-6 小代氏系図(主として小代文書中のものによる)
石井進『中世武士団』より

  〔註〕
(1) 弘行・経行は児玉郡全部を屋敷として居住した豪族であるが、本来の屋敷は堀の内とか館(やかた)とかである。このさいの屋敷とは、その支配下にある先祖相伝の児玉郡全部を屋敷地と称しているのである。これは中世武士団が領地を拡大・発展させようとする意欲の表現である。

(2) 奥州後三年合戦の絵図は、承安元年(一一七一)に後白河法皇の院宣によって、四巻がつくられたが、今はない。現存の絵巻は、その後、貞和三年(一三四七)比叡山の僧、玄慧(げんえ)と飛騨守惟久(これひさ)という画家によってつくられたが、六巻のうち前半三巻は失われた。ここにいう絵巻は承安元年のものである。

(3) 経行の二男行重は、秩父重綱の養子となって秩父平太と称したからである。