この記事を見ると、前述の弘行が後三年の役に義家の副将軍として参加したという記事と合せて、義家に関連した後三年の役・多胡高経征伐による論功行賞として、所領が拡大したのではないかと推測される。
ともあれ、一二世紀後半は大開拓時代であった。弘行の父、有貫主遠峯は阿久原牧の別当を勤める豪族であり、武蔵守という最高の地方長官である。在庁官人の特権と、重代養ってきた豪族としての実力を兼ね備えた児玉氏は、入西郡小代郷の空閑地を選定し、大規模な開拓を進めたのであろう。
小代は正代とも勝代とも書く。九州では小岱とも書いている。比企郡高坂の東方に位置する。平坦な比企丘陵がなだらかに東方に傾斜して、その台地の先端が舌状に水田に突出するところ、宮鼻(宮のある突出地)に次いで、小さな台地が正代である。その水田は、都幾(とき)川と越辺(おっぺ)川が合流した氾濫原であるためにその多くは湿田である。「水損の地」といわれるこの耕地を洪水から守るために、越辺川に沿って長さ二三間の大囲堤をめぐらせている。用水堀として、南用水は長さ一二町三〇間あって、二五町七反余の水田をうるおし、北用水は長さ一五町二〇間で、二二町九反余の灌漑に供している。他に、水除堤が四〇五間もつづいている。これだけの大土木工事を施行して、安定した水田がやっと造成されたわけであるが、その全工事が弘行の時代に完成されたのではないであろう。しかし、多数の家人(けにん)・郎党などの従者や、下人を使用し、また近在の農民を徴発する権限を利用して作業に従事させ、荒野を開拓して広大な美田を造成したのは弘行の実力と特権によるものであろう。
この時代、入間川のほとりでも川越氏の開拓が始まっていた。
武蔵国入間河のほとりに、大きな堤(つつみ)を築き、水を防いで、そのなかに田畠を作って、在家(※註1)が多く群っているところがあった。官首(貫主)(※註2)といわれる男がそこの主人で、年来そこに住んでいた。(鴨長明『発心集』)
〔註〕
(1) 貫主に隷属する百姓
(2) かしらだった人
この川越氏開拓時代の状況は、児玉弘行の正代での水田造成の状態を彷彿(ほうふつ)させるものである。