2 「小代文書」は語る――小代行平の置文――

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 置文(おきぶみ)とは、子孫に対して、自分の意志や戒めを書き残しておく文書のことであるが、行平(ゆきひら)は、小代氏の不遇の嘆きや、将来の戒めを次のように書いている。
 行平が曾祖父、児玉の有大夫弘行の所領の事は、他国のことは省くとして、武蔵一か国では、児玉郡・入間郡と久下(くげ)・村岡・中条・忍(おし)・津戸・野村・広田・屈須(くず)・小見野(おみの)・三尾乃野(みおのや)であり、この他にもあった。それで分限(領地)も広く、武道にも秀れていたから、児玉から入西(にっさい)へ移られるときにも、すべて外へ出かけられたときには、随兵百騎をひきいられた。また、児玉郡と入間郡との行程は六十余里あるのだが、弘行二男、入西の三郎相行(すけゆき)(行平には祖父にあたる)が、父弘行の見参(げんざん)に入る(お目にかかる)ために、三日に一度は必ず入西から児玉へ参られたが、毎度随兵五十騎をひきいられた。しかるに、領地がだんだん狭くなって、行平になると身分も低くなったが、父祖のお陰で、征夷大将軍(頼朝)の時代には、御〓飯(おうばん)の頭役(かしらやく)を勤めた。また、万一の大事件が起ったときには、先祖の吉例にまかせて一方の固めを仰せつけられる身分であった。それが、鎌倉右大将(頼朝)がお隠れののち、不思議な讒奏(ざんそう)をするものがあって、ただ正代の土地だけを残し、所領はみな召し上げられることになった。子孫の時代になると、人の数にも入らぬようになって、重代の名誉を失うことを思うと、嘆かわしい限りである。ここに置文を書いて、行平のまちがいのない仔細(しさい)をお聞き下さったのだから、没収された所領などは、たとえ行平の世にお返し下さらなくとも、子孫が一生懸命に奉公をいたし、重大な事件でもあったら、没収された所領をお返し下さるだろう。代々重ねてきた御奉公を相継いで、身を立て、家を興すべきものである。(大石真麿「肥後古記集覧」所収)