小代の岡の屋敷は、源氏の大将軍左馬頭(頼朝)の御兄である悪源太義平殿が、大蔵の館で伯父帯刀先生(たてわきせんじょう)(※註1)殿(義賢、木曾義仲の父)を討ちたてまつったとき、御屋形をつくっておわしました所である。仍(よ)って、悪源太殿を御霊(ごりょう)の神(※註2)としておまつりしてある。然れば後々将来に至るまで、小代を知行するものは、惣領といえ、庶子等といえ、怠りなく信心して崇敬すべきものである。(大石真麿「肥後古記集覧」所収)
〔註〕
(1) 「たちはき」ともいう。古代に皇太子の舎人監(とねりのつかさ)(天皇・皇族などの雑用人)の役人で、警護の任についた。武術の秀れたものを任じ、特に帯刀させた。その長を先生(せんじょう)といった。先生は二人おり、源平の武士から選抜して任じた。
(2) 怨(うら)みをのんで非業の死をとげた人の怨霊(おんりょう)。祟(たた)りがあるという。今では、武勇で名高い鎌倉権五郎景正をまつる。
悪源太義平(よしひら)が叔父の義賢(よしたか)を攻め殺した事情については、安田元久氏の「古代末期における関東武士団」(『日本封建制成立の前提』所収)によって、その概略を述べる。
一二世紀後半期(平安末期)は、武士団の成長が急速に進み、その結合・組織化の気運が高まった時代であった。源義朝は次第に増大・強化される実力(=武力)を背景に、漸次その勢力圏を拡大した。その場合、清和源氏すなわち「武勇の家」の嫡流あるいはその子孫を「貴種」として尊重することは、東国武士の間で一般にみられたことであった。義朝も含めて中央から来た下級貴族であっても、源家の「貴種」は、武士団の統合が急速に進もうとするこの時期の関東では、統一の核として貴重な存在であった。
一方、義賢(よしかた)は帯刀(たてわき)の長として、初めは在京していたが、その後、東国に来たらしく、「かれ義賢、去る仁平(にんぴよう)三年(一一五三)夏のころ、上野国多胡(たご)郡に居住したりけるが、秩父次郎大夫(河越)重隆の養君になりて、武蔵比企郡に通いけるほどに、当国に限らず、隣国まで隨(したが)いけり」(『平家物語』)という勢いであった。ところが、「久寿二年(一一五五)八月一六日、義朝の一男義平がために、大蔵館(おおくらやかた)にて討たれにけり」という結末になった。叔父にあたる義賢だけでなく、秩父から出て菅谷、川越方面に勢力を伸ばそうとした秩父(川越)重隆までも討たれたのであった。
そのとき義朝は在京しており、嫡子義平がその留守を守っていた。一人ひとりの在地武士を順次に支配下に組み入れ、中小武士団を統合してゆくという方法で、その勢力を拡大するためには、大武士団は競い合い、究極的には武力を行使しなければならなかった。
そして、武州比企郡を根拠に、武蔵一国だけでなく上州まで支配を広げるほどに成長した源義賢と秩父重隆の勢力に対して、相模から北上して武蔵に勢威を伸ばし、武蔵武士を従わせようとした源義朝、義平の動きは、当然のこととしてその衝突を必然化させた。この場合、兄弟・叔父・甥などという肉親関係は、何らその動向を制約するものではなかった。冷酷な殺戮(さつりく)に他ならなかった。
この大蔵館の合戦は両勢力の最終的衝突であり、義賢を討滅した義平の力によって、武蔵武士の多くは義朝の武力として結集された。
この運命的な合戦に、小代氏は遠く鎌倉から北上してきた義平のために、軍事基地を提供して、源氏へ忠節を尽したのであった。
小代氏系図をみると、小代氏と秩父重隆家とは姻戚関係にあるのだが、それも無視されてしまった。