頼朝に信頼される小代行平

182 ~ 183
 次に伊重は、小代家の先祖である行平について、頼朝と心安く、信頼が深かった事情を述べている。
 頼朝公が伊豆山参詣のさい、行平が隨兵として御供をしたが、石橋をお下りになるとき、行平の肩をおさえて、おまえを心安く思うぞと、御定(ごじよう)(お言葉)に預かったので面目を施した。(大石真麿「肥後古記集覧」所収)

 また、建久(けんきゅう)四年(一一九三)三月二一日、頼朝が信濃国三原の狩りを見分するさい、行平に与えた恩恵について述べている。
 頼朝公が信濃国の狩りを御覧のために、武蔵国大蔵の宿にお着きになったとき、小代八郎行平は来ておるかとお尋ねになった。その時、お側に居た梶原景時が、行平は御堂(みどう)(※註1)を造立し、明日はその供養(くよう)を営むので遅参するのですと申し上げたところ、それでは近隣の者はみな行平の供養に参加して、それをすませて参加するようにとおっしゃった。その上、梶原宗家をお使いにして、黒のお馬を給わった。お使いのその日の装束(しょうぞく)は、薄黒い村濃(むらご)(※註2)の水干(すいかん)(※註3)を着て、烏帽子(えぼし)を引き立てて、お馬は導師に引かれていた。御堂の供養がすんだのち、仰せの通り、行平と御堂供養に参加した人々は、上野国山名の宿に馳せまいった。

 頼朝公が鎌倉に帰られたのち、お馬を給わったお礼を申し上げたところ、免田(※註4)十二町を給わっていよいよ面目を施した。この免田は十二町というものの、内検(※註5)広く、その中に屋敷が数か所もあった。(大石真麿「肥後古記集覧」所収)

   〔註〕
 (1) 興仏寺のことだと註記してあるが、今は香仏寺として残っている。行平譲状(ゆずりじょう)にみえる「阿弥陀堂一宇」がこれに当るであろう。小代氏の氏寺であろう。
 (2) 同色で、所々に濃いところと、薄いところのある染色。
 (3) 公家が常用した略服の一種。
 (4) 年貢や課役を免除された田地。
 (5) 内々で調べる。