行平が頼朝公より給わった数通の御下文(※註1)・御教書(※註2)や、不思議な御状などは、全部、行平の妻である河越の尼御前(ごぜ)に預けておいた。行平の死後、行平のあとをついだ、行平の兄の子俊平が、行平の預けた文書をお返し下さるよう河越の尼御前(源義経の正妻の父として名高い河越重頼の妹にあたる)にお願いした。しかし正文も案文(※註3)もついに返してもらえなかった。尼御前としては、河越の一門を養われているから、その養い子に与えるお考えのよしである。
頼朝公の御下文や御教書・御状書は、なんとか捜し求めて小代家でもつべきものである。そのわけは、御下文や御教書は、その地を今知行しているわけではないが、将来、恩賞に預かるときに、その由来の地を望みたいこともあるであろうし、重代奉公した名誉を顕わすためにも、お上(かみ)にお見せ申したいものである。
また、頼朝公御逝去ののちに、行平に給わった御下文も、みな河越の尼御前に預けてあるが、これも正文・案文ともに出してくれなかった。それで、頼朝公以後の御下文のうち、建仁(けんにん)三年(一二〇三)の御下文三通の正文は小代三郎左衛門入道(能行、法名道念)跡にあるから、案文を写しておく。
(大石真麿「肥後古記集覧」所収)
〔註〕
(1) 上位にある人から、下位の者に下す命令書。
(2) 幕府将軍の出す文書。
(3) 文章の写し。
(1) 上位にある人から、下位の者に下す命令書。
(2) 幕府将軍の出す文書。
(3) 文章の写し。
老いた小代伊重のたどたどしい記述はなおつづく。
児玉の先祖の次第、ならびに系図、また小代八郎の条々記録した状のことは、所領とも召し上げられて、身のおきどころもないほど悔しいが、自分の身については、塵ほどの誤りもないことだから、子孫は必ず立ち直ってくれるだろうとたのもしく思っている。
今となっては、記録を書いてくれた人たちは、みな立ち去ってしまい、気が合って、いろいろ書いてくれた寺の蓮敬房も他界した。文字を書かせる人はいなくなった。先祖のお名残りに、お名前だけでも書き留めておきたい心が抑えきれない。
宗妙(伊重)は今年七三才になり、気力も衰えた上に、この歎きのために、筆の立つところも見分けられないが、それを抑えて書いている。書き損じ多くて、紙を切り継ぎ切り継ぎ書いている。
されば、筆の達者な人に、よい紙で清書させねばならぬ。しかし、宗妙の書いた紙はわるく、継ぎ目がちである。また、反故(ほご)の裏に書いたりしてあるが、宗妙が一生懸命に書いた状である。なくしたりしないで、清書の紙に書きかえてもらいたい。(大石真麿「肥後古記集覧」所収)
この「小代文書」は、老いた伊重が、高ぶる感情と、せつない思いの交錯のなかで書き上げたものである。