3 小代家の武人鎮西へ

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 宝治元年(一二四七)六月二三日の鎌倉将軍藤原頼嗣(よりつぐ)の下文(くだしぶみ)によって、小代平内右衛門重俊は、「子息重康の忠」に依って、肥後国野原庄の地頭職(じとうしき)に補任されたが、「重康の忠」とは宝治合戦で忠勤を励んだことをさしている。北条氏と肩を並べるほど勢力のあった三浦氏の当主泰村は、北条泰時の女婿として威を振るったが、時頼の外祖父として重きをなす安達景盛父子と争い、安達氏の陰謀による挑発で、同氏と結ぶ北条氏と戦うことになり、敗れて全滅した。宝治元年(一二四七)六月のことである。この結果、執権北条氏の独裁体制が確定した。地頭職を補任された重俊は、直ちに任地に赴くことなく、本貫の地(本籍)小代郷に止まっていた。現地にはおそらく地頭代を派遣しておいたのだろう。

将軍藤原頼経の下文(永青文庫所蔵小代古文書写)

             (花押)
下  肥後国野原庄
  補任地頭職事
   小代平内右衛門尉重俊
右人、依子息重康之忠補任彼職之
状如件
  宝治元年六月廿三日
この原文を読み下すと、
 
   (将軍藤原頼嗣 判)
御下文 肥後国野原庄
  地頭職(しき)に補任の事
   小代平内右衛門尉(じよう)重俊
右の人、子息重康の忠によって、
彼(か)の職に補任の状、件の如し。
  宝治(ほうじ)元年(一二四七)六月二十三日
 文永八年(一二七一)九月一三日、執権北条時宗から御教書が来た。蒙古人の襲来が近づいたから、御家人(ごけにん)を鎮西(ちんぜい)に遣わすことになった。重俊は自身肥後国の所領に下向せよという命令である。彼は老齢のせいか、このさい自身赴任することなく、四人の子息を派遣している。右衛門次郎重泰・増永七郎政平・荒尾八郎左衛門尉泰経・一分右衛門九郎資重である。惣領家の重泰を除いた増永・荒尾・一分はいずれも領内の村の名である。一族を領内のこれらの村々に入れ根をおろさせていたのである。

北条時宗・政村御教書(永青文庫所蔵小代古文書写)

蒙古人可襲来之由有其聞之
間所差遣御家人等於鎮西也
早速自身下向肥後国所領
相伴守護人且令致異国之
防禦且可鎮領内之悪党者
依仰執達如件
  文永八年九月十三日 相模守(花押)
            左京権大夫(花押)
  小代右衛門尉子息等
 
蒙古人襲来すべきのよし、その聞こえこれあるの
間、御家人等を鎮西(ちんぜい)に差し遣わすなり。
早速(さっそく)、自身肥後国所領に下向し、
守護人を相伴い、かつは異国の防禦を
致さしめ、かつは領内の悪党者を鎮(しず)むべし。
仰せによって執達件(しつたつくだん)の如し。
  文永(ぶんえい)八年(一二七一)九月十三日 北条時宗 判
                        北条政村 判
  小代重俊子息(重康)等
 野原庄の地頭として赴任した重泰は、小代山中に筒ヵ嶽城を築城して、これを支配の根拠とした。弘安六年(一二八三)には所当米(税を米でとること)七〇六石の収入があった。そして、天文期(一五三二―五五)には三八〇町の土地を領有した。それが、永禄の初め(一五五八―)には八三〇町(高にして、二九、八〇〇石)と増加した。戦国時代になると小代氏の武勇大いに振い、天正五年(一五七七)には一、三〇〇町の所領となった。ところが、天正一五年、豊臣秀吉の征西にあたって、本領のうち二〇〇町の知行を許されたが、戦国期に獲得した所領は安堵(あんど)されなかった。その上に、佐々成政が肥後の領主として赴任すると、秀吉の朱印高二〇〇町にもかかわらず、その宛行(あてがい)高は一五〇町にすぎなかった。これは、小代氏一家だけのことではなく、肥後の国人(こくじん)(※註)全体が成政の手によって大削減を受けたのであった。
   〔註〕
 南北朝・室町・戦国時代の諸国の在地土豪・守護は外から補任されるので、その国の土着の人の意味である。

 これが原因で、肥後国一帯で有名な「国人一揆」が起こった。

龍造寺政家宛行状(永青文庫所蔵小代古文書写)

肥後国玉名郡之内大野
之別符弐百町所令遣
入也者任先例可有領
知之状如件
  天正九年十二月廿七日 龍造寺政家(花押)
  小代殿参
 
肥後国玉名郡の内大野
の別符弐百町遣し入らしめる
ところなり。者(てへれば)先例にまかせ
領知あるべきの状、件の如し。
  天正九年(一五八一)十一月二十七日
            龍造寺政家(判)
  小代殿参(まい)る
 天正一五年八月の初めに、土着の大領主に主導された、肥後北部の一揆は三万余と伝えられ、佐々成政の軍を破り、隈本(くまもと)城に追いつめた。そこで、大坂城に引揚げていた秀吉は、西国の諸大名を動員して、一揆弾圧に出動させた。半年にわたる抵抗をつづけたが、その年の暮れ、一揆は漸く鎮圧された。
 当時、肥後国人といわれる土豪は五二人を数え、小代筒ヵ嶽城主小代氏も有力な国人であったが、一揆発生のときには、人質を大坂に提出している状況で、参加を不可能にしていた。
 
 一揆鎮圧後に、「逆意の輩(やから)、尋ね捜し、ことごとく成敗あるべく候。国・郡荒れ候ても苦しからず」という峻烈な弾圧指令をうけて、主導者たちは処分された。そればかりか、この一揆に傍観の態度をとっていた国衆も徹底的に掃討された。このさい、刎首(ふんしゅ)(首をはねる)されたもの一、〇〇〇余人に及ぶという。また一説には、約五、〇〇〇人が尋ね搜され殺害されたという。一揆の原因になった佐々成政の失敗に対しても、秀吉は厳しい態度で臨んだ。成政は謝罪するため大坂に向かっていたが、秀吉はこれを尼ヶ崎に幽居せしめ、自殺させた。
 成政のあとには加藤清正が入国したが、小代氏は野原の旧領から離され、阿蘇、合志両郡のうち四三九六石を与えられ、芦北郡津奈木城代に転じた。
 加藤家断絶の後、浪人となり、筑後柳川に退いたが、小代下総のとき肥後に召し出され、細川忠利に仕えた。
   参考文献
    永青文庫所蔵「小代古文書写」
    森山恒雄「肥後の国人一揆」
    杉本尚雄「荘園勧請神から氏神へ」
    瀬野精一郎「鎮西における東国御家人」