5 吉田氏

188 ~ 189
 小代遠広の子行平は、有名な「小代行平譲状(ゆずりじょう)」を書き残した人物である。この譲状には、承元(じょうげん)四年(一二一〇)三月二九日の日付で、自分の養子となった小代俊平(としひら)に、入西郡小代郷の村々ならびに屋敷等を譲る旨を記してある。このなかの村々とは、吉田の村、南赤尾の村、越辺(おっぺ)の村の三か村であり、屋敷は「堀の内」となっている。「越辺の村」は現存しないが、おそらく現在の坂戸市島田の付近ではないかと推察される。吉田の村は当然、現在の上吉田のことである。このことについて、大正二年発行された『武蔵武士』では、断定はしていないが、「名細(なぐわし)村の大字に吉田あり」と参考として示唆してあるため、この吉田が川越市下吉田であることが定説であると思っている人が多い。しかし、「入西郡小代郷の村々」と最初に総括してあるところをみると、吉田は小代郷のうちでなければならないし、越辺・赤尾と並列してあるから、吉田は遠い下吉田ではなく、現在の坂戸市上吉田であると比定するのが当然であると考えられる。
 小代行平から、その所領の吉田・赤尾・越辺の三か村と屋敷を与えられた俊平は、その屋敷が吉田の村にあったらしく、苗字を改めて吉田と称した。児玉系吉田氏の始祖である。その子孫は秩父の小鹿野町に居住し、秩父吉田家系図を秘蔵している。系図の冒頭に「本国武州吉田邑(むら)」と書いてあり、秩父吉田邑とは書いていない。つづいて「吉田は邑名にして、武州に在り、吉田を以て称号となすは、俊平始めて吉田に住み、吉田と号す。」と記してあり、小代俊平が入西郡吉田の村に住んで、吉田と称したことを説明している。この吉田氏は、系図には代々の名前を記してあるが、その事績については何も記述することはなかった。一一代和泉守政重の代になって、やや吉田氏の片鱗を知る記事がある。それによると、「代々武蔵ノ住士、武州黛(まゆずみ)(※註)ノ城主」であるというから、鎌倉時代以後、南北朝・室町・戦国時代を通して武蔵国を離れることなく、また没落することもなく、生き抜いてきた武蔵武士であったことが分る。
〔註〕 児玉郡上里町の大字勅使河原金久保にある。埼玉県の東北端、利根川の支流烏川と神流(かんな)川の合流点で、交通の要衝である。

 室町時代には、代々上杉管領家に仕えていたが、天文一五年(一五四六)の川越夜戦で、上杉勢が、北条氏康のため徹底的に敗れ、滝山城(八王子市)の大石定久や、秩父天神山城に拠(よ)る藤田邦房ら、上杉氏の重臣が風を望んで北条氏に降ったとき、藤田氏に属していた吉田政重も主とともに後北条氏の家臣となった。ところが、実重の時代になって、天正一八年(一五九〇)「東国制圧」のため豊臣秀吉の攻撃を受けると、小田原城は落城し、鉢形城もまた軍門に降り、後北条氏は没落した。その後、実重はしばらく牢人となっていたが、慶長四年(一五九九)上杉景勝に仕えることになり、会津若松に住むようになった。しかし慶長六年(一六〇一)景勝は、会津一〇〇万石から出羽米沢三〇万石に移封された。上杉家にやや遅れて米沢に移った実重父子は再び牢々の身となる。
 慶長五年、徳川家康の次男結城(ゆうき)秀康は下総国結城から越前北庄(福井市)に入封、六七万石の城主となったが、この秀康公に仕え、七〇〇石を受領した。そして、その地で卒した。その子、善兵衛信重は父と同じく秀康公に仕えていたが、元和(げんな)三年(一六一七)「寄親伊豆守殿をとりなしきれず、暇(いとま)を乞うて」、三八才の若さで本国武州へ帰った。信重の母は、秩父上吉田の逸見(へんみ)十八郎(若狭守)の娘であり、妻は同じく上吉田の斎藤右近の娘である。信重自身の娘は母の実家である逸見四郎左衛門の妻となっているから、彼は上吉田の母の実家へ身を寄せたのであろう。
 そのうちに、小鹿野郷の百姓が追放されて上(あが)り地(没収された田畑屋敷)となった土地の払い下げをうけて小鹿野に土着した。
 もっとも、弟の重秀は兄に代って、越前中納言家につづいて奉公していた。
参考文献『埼玉叢書』第二

福島幸八「吉田家文書の調査」小鹿野町教育委員会