この標題は誤解させることが多い。秩父吉田家というのは、秩父に出自をもつ吉田家ではなく、今日の坂戸市上吉田に苗字の地をもつ吉田家である。同じ吉田という地名が、坂戸と秩父にあり、しかも、双方とも吉田氏とは深い関係をもっている。吉田氏と秩父との関係は、寄親の藤田氏が秩父天神山城主であったことから始まったのではないかと推測される。信重の母は逸見(へんみ)十八郎の息女であり、彼の妻は斎藤右近の息女、その娘は逸見十八郎の嫡男四郎左衛門に嫁いでいる。いずれも上吉田の住人である。二重にも三重にも上吉田の関係は深い。この時点から、吉田氏は上吉田の吉田氏となった感が深い。しかしその後、小鹿野村で追放処分をうけて闕所(けっしょ)となった百姓の田畠・屋敷の払い下げをうけて、小鹿野村に移り住むようになった。
こういう経過を経て、現在は小鹿野町吉田氏となっている。