第四節 入西氏と浅羽氏

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 児玉、入西(にっさい)の両郡を領有した児玉弘行は、入西郡小代郷に進出してきたが、その子、資行(すけゆき)は入西三郎大夫と称し、「入間郡入西原はその住地なり」(『武蔵武士』)という。ここにいう入西原とはどこをさしているのだろうか。定かではないが、高坂・正代・越生・浅羽のうちいずれかであろう「入西郡刺史(しし)なり」とあるから、入西郡の地頭であり、郡を領有し支配していたのであろう。
 その子、行業(成)(ゆきなり)は、浅羽小大夫と称し、入間郡浅羽に住していた(『同書』)。これは入西郡を分割相続したのである。それで浅羽氏の曩祖(のうそ)(始祖)といわれる。行業の移り住んだ浅羽の地については、通説としては浅羽郷のうち浅羽本郷が比定されている。しかし、行業が浅羽に移ってきたのは、この地を開発して、所領の拡大を目的としたと思われる。この時代が大開発時代であることは先述の通りであるが、行業の祖父弘行は児玉より来て、正代の荒地を開発して、所領の拡大に努めた。また、遠く秩父より出た川越氏の祖は、入間川のほとりに堤防を築いて、水田を造成したのをみても、当時が大開発の時代であることが納得されよう。
 
 旧入西村の長岡から東方にひろがる広大な入西耕地は、はじめからこのような肥沃な水田ではなかったはずである。今日の入西水田は、長岡に阿弥陀堰が掘られ、そこから越辺川の水を引き、幅七、八尺の用水堀を通じて、延々入西領一〇か村の水田をうるおしている。
 これは驚くべき大工事である。これだけの大工事を遂行したのは何人であろうか。現在のところ明らかではないが、ただそれだけの条件を備えた人物だけは推定できる。その人物は一〇か村を政治的に統制できる権力があり、豊富な労働力をもっていて、その上に、「要用に隨(したが)って」、無制限に農民を使役する権限を有し、なお、工事に要する道具と食糧を十分に供給できる人物であろう。
 私にはこの大工事を施行して、入西耕地を開発したのは、浅羽氏の曩祖(のうそ)(始祖)である浅羽小大夫行業ではないかと思われる。
 
 北浅羽の満福寺境内に、有名な徳治(とくじ)二年(一三〇七)の大板碑が台座の上に立てられている。碑面の向かって右側に
右為曩祖浅羽小大夫有道行成朝臣

其子孫等就彼故墳

左側に
奉造立也、伏願菩提樹茂近蔭後昆

本覚月朗遠照幽明也

中央には
徳治二年丁未結制日、七代末孫比丘慧見幹縁造立

これを読み下すと
 右曩祖浅羽小大夫有道(ありみち)行成朝臣(あそん)のために、その子孫等かの故墳(※註1)について、造立し奉るなり。伏して願わくは、菩提樹(ぼだいじゆ)(※註2)茂りて近く後昆(※註3)を蔭(おお)い、本覚(※註4)月朗(ほが)らかに遠く幽冥(ゆうめい)(※註5)を照らすなり。徳治二年丁未(ひのとひつじ)結制日(※註6)、七代末孫比丘(びく)(※註7)慧見(えけん)幹縁(※註8)造立す。」

   〔註〕
(1) 土を高く盛り上げた古い墓。

(2) 釈迦がこの木の下で悟をひらいたという木。

(3) 子孫。

(4) 心の本性は、本来、悟りの性を備えているということ。

(5) 死後の世界。

(6) 安居(あんご)に入る日。四月一六日

(7) 男僧。尼は比丘尼。

(8) 嫡(ちゃく)孫であって、庶流ではない。

 
 伝承によると、板碑が境内に立つ満福寺は浅羽氏の菩提寺であるという。このことも浅羽氏が当初この北浅羽を本拠としたことを示すものである。もしも南浅羽を本拠とするならば、高麗川を隔てて遠く浅羽郷の西北端ともいうべきこの地に菩提寺を建立するわけがないからである。
 しかし、このことは南浅羽に浅羽氏がいなかったということではない。浅羽氏は行業の孫の時代になると三家に分れ、行元(光)と、維行・行長の三人がそれぞれ一家を構えるようになった。この三家の本拠は明らかでないが、嫡子行元は北浅羽に住んだのではないか。その孫の盛行が分出して長岡を称している。三男行長は南浅羽に住居を構えて、その子行家は飯能方面に進出して、大河原太郎と称している。この三家はそれぞれ別行動をとっている。正応六年(一二九三)四月の平禅門の乱(※註1)には、左近将監氏盛は、平左衛門入道果円に一味して自害しているが、大炊助(おおいすけ)左衛門尉(じょう)重直と三郎太郎兼直、彦五郎俊家の三兄弟は同じ平禅門の乱で、執権北条貞時の陣に加わり、果円討伐に参戦し、疵を蒙るほどに奮戦して恩賞を受けている。特に兼直は、それより八年前の弘安八年(一二八五)の弘安合戦(※註2)にも疵を受けている。浅羽氏同族が敵味方に分れて戦ったわけである。このことは、嫡系の氏盛と、庶流の重直とは本拠を異にしたことを意味するものである。
   〔註〕
(1) 正応六年(一二九三)四月に、平頼綱(平左衛門)が北条貞時に誅された事件である。頼綱は「北条貞時の乳母(めのと)の夫であり、貞時の執権就任とともに、内管領(うちかんれい)(北条氏の家老)という要職についた。自分の立場を利用して「恐るべき専権と、恐怖の政治」をほしいままにした。しかし、自分の嫡子宗綱が執権に密告して、頼綱が主家を倒して執権になろうとしていると告げたため、貞時に誅された。

(2) 霜月騒動ともいう。弘安八年(一二八五)一一月、安達泰盛の一族滅亡事件。泰盛は北条氏との血縁関係があり、鎌倉幕府草創以来の安達氏の功績を背景に権力をふるった。外孫北条貞時が執権になると、内管領頼綱に、泰盛の子宗景が謀反を企てていると中傷され、一族が討伐された。

 
 平禅門の乱に、執権貞時側について、果円討伐に働いた重直三兄弟は、恩賞に預かり、家運も栄えたであろう。しかし、果円に味方して自害した氏盛の浅羽家は深刻な打撃を受けたのであろうが、これはどうやら北浅羽の浅羽家らしい。ところが、氏盛には重氏・高□(不明)の二人の弟がいた。衰えたというものの子孫は残っていたようである。「報恩寺年譜」によると、康永(こうえい)三年(一三四四)に、北浅羽の松楠という人物が、越生報恩寺に三〇貫の俸銭(扶持の銭)と田を寄進しているのである。

図3-7 児玉党系図 入西氏・浅羽氏
『続群書類従』より