寿永三年二月五日、源氏の両将、摂津国に到る。七日朝六時を以て、箭合(やあわ)せの期と定む。大手の大将軍は蒲冠者範頼(がまかじゃのりより)なり。相従うの輩(ともがら)は
中条家長・庄司忠家・同広方・塩谷惟広・庄家長・秩父行綱・小代八郎行平の児玉党の他に、畠山重忠以下二十四名が記載されており、総勢五万六千余騎であった。
搦手(からめて)の大将軍は、源九郎義経なり。相従う輩は
熊谷直実・同直家以下十五名が記載され、総勢二万余騎であった。
文治五年(一一八九)七月、頼朝の奥州征伐にさいし御供の輩は、児玉党には
四方田三郎弘長 小越右馬之允有弘
浅羽五郎行長 小代八郎行平
建久元年(一一九〇)十一月、頼朝上洛のさいは
先陣畠山次郎重忠 二番熊谷小次郎直家
四番小越四郎有平 十三番浅羽小三郎行元
後陣五番小越右馬允有弘 十八番倉賀野三郎
二十二番大河原次郎・小代八郎行平 二十四番浅羽五郎行長
三十四番浅羽三郎(遠江)
建久六年(一一九五)頼朝が東大寺落成供養会に上洛したときの隨兵は、
小代八郎 浅羽三郎 倉賀野三郎 浅羽庄司三郎 四方田三郎
以上の児玉党の武士が含まれていた。
時代が下って、南北朝時代になると、延元(えんげん)三年(一三三八)五月二二日に、越生四郎左衛門尉は高師直の手に属し、南朝の忠臣北畠顕家を打取った。顕家は「和泉(いずみ)の境、安部野(あべの)にて討死にし給いければ、相従う兵(つわもの)悉く腹切り創(きず)を被(こうむ)って、一人も残らず失(う)せにけり。顕家卿をば、武蔵国の越生四郎左衛門討ち奉りしかば……」(『太平記』巻十九)とある。正平(しょうへい)一〇年(一三五五)摂津神内(こうない)(高槻市内)で戦われた神内合戦で討死した武士の一人に、粟生田左衛門次郎の名が見える。(『同書』巻三十二)