遠江の守護安田三郎(義定)の使者が頼朝のところへ来ての訴えによると、義定は頼朝の代官として遠江の国の守護をつとめ、平家の襲来に備えて、命をかけて城砦を築いている。ところが、人夫を召集しても、浅羽庄司宗信や相良(さがら)三郎長頼らは、事々に守護である義定を軽侮して協力しようとしない。その上に、義定が領地にいるときにも、この両人は乗馬したまま通り過ぎ挨拶もしない。これは、彼らの一族が平家に通じているからである。ただちに刑罰を加えてもらいたいということであった。
この訴えによって、浅羽三郎は処罰されたが、まもない同月三〇日に、陳謝したため許されて、領地の芝村と、田所職(たどころしき)を返してもらった。
この浅羽三郎という御家人(ごけにん)について、安田元久氏は『武蔵の武士団』で次のように述べている。
浅葉行業の子行親(ゆきちか)は浅羽三郎と称し、『吾妻鏡』には数か所に浅羽三郎があらわれる。しかし、この話の浅羽三郎は、どうやら遠江国の浅羽庄司の人らしく、行親が鎌倉御家人となった徴証はない。そして、行親の子息の小三郎行光および五郎行長になると、明らかに鎌倉御家人としての行動のあとを、『吾妻鏡』の中に見せている。
そして、浅羽庄司三郎宗信の浅羽三郎は、浅羽三郎行親とは別人だといっている。
ところが、静岡県磐田(いわた)郡浅羽町で、前に村長をしていたという郷土史家原田和氏の著書『浅羽風土記』によると、話がちがってくる。
浅羽氏は武蔵七党から出て、浅羽三郎・浅羽小三郎などの人名がある。浅羽庄司宗信と、浅羽三郎とは同一人物かとも思われる。
われらが郷土に初めからアサハの名があって、これが庄園となり、その支配者が浅羽の氏をつけたのではなく、その逆に、武蔵から出た浅羽氏は、柴村を中心とした数か村を支配し、浅羽氏の庄園という意味で浅羽庄の名が生れたのであろう。
平安朝初期の「和名抄」には、遠江国では「あさば」や、それに類した地名はない。
浅羽庄の初見は吾妻鏡であり、治承五年に浅羽庄司宗信が遠江国守護安田重貞と事を構えて、記録に載ったときである。
吾妻鏡にある遠州の豪族、横地氏、勝間田氏などは、いずれもその本領地の横地村・勝間田村に墳墓を残しているが、浅羽氏のものは武蔵の浅羽村にあって、遠州の浅羽の地に見あたらないのは、一時、所領の地として遠州に住していたが、後年いずれも郷国たる武州に帰って、そこに墓石を残したものであろうと思われる。
次に、頼朝の随兵のなかで、両三郎を探してみよう。
建久元年十一月七日、頼朝は上洛し、後白河法皇に謁し、ついで後鳥羽天皇に拝謁し、権大納言兼右近衛大将に任ぜられた。この時の先陣随兵六十番中十三番に浅羽小三郎、また後陣随兵四十六番中二十四番に浅羽五郎(行長)、三十四番に遠江浅羽三郎が列している。
建久六年三月十日、頼朝夫妻は南都東大寺大仏供養のため上洛した。その時の先陣随兵のなかに浅羽三郎があり、後陣には浅羽庄司三郎の名が見える。ただし、当然のことだが両人は別人である。(『吾妻鏡』)