第六節 村山党と広谷六郎

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 武蔵七党のうち、桓武(かんむ)平氏に系譜をひくとされるのは野与党と村山党である。
 「武蔵七党系図」によると、平忠恒(忠常)の子に胤宗があり、その子元(基)宗が野与の庄司となって野与氏を称し、また、元宗の第三子頼任が村山党の祖とされている。
 野与党に属する諸氏の数は二〇余あるが、諸氏の多くは南・北埼玉郡の各地に割拠しているところをみると、おそらく埼玉郡内の肥沃な土地を選んで本領としたであろう。
 村山党は、頼任が武蔵国村山郷に開発地をもつ在地領主であったから、その名でよばれたのであろう。当時の村山郷とは、西多摩郡の東端から、北多摩郡、入間郡の両郡にまたがる丘陵一帯を含む地域であった。
 この村山郷を発祥地とする村山党であるが、その分布、発展は、東北方の入間郡を中心として行われた。その主なものは宮寺氏(入間市宮寺)、山口氏(所沢市山口)、久米(くめ)氏(所沢市久米)、、荒幡氏(荒波多とも書き、所沢市荒幡)、大井氏(入間大井町)、難波田氏(富士見市南畑)、金子氏(入間市金子)、仙波氏(川越市仙波)、須黒氏(坂戸市旧勝呂村)、小越氏(越生町)、広屋氏などであった。

図3-8 野与党・村山党系図

 そのなかで、広屋氏は「七党系図」には広屋六郎と記すだけで、実名も事績についても何ら記していない。広屋六郎が広谷に来住した時代は、これも記載はないが、平安末期かあるいは鎌倉時代の初期、頼朝の頃ではないかと推察される。それは、同世代に属する仙波家信の長子平太信平、次子の二郎安家が、『吾妻鏡』に頼朝の随兵として名を載せてあるからである。
 広屋六郎の来住した広谷(ひろや)は、現在の広谷ではない。上広谷・下広谷・五味ケ谷に坂戸市紺屋(こうや)を加えた広い地域をさし、当時は広谷郷と称していた。このうち紺屋のことを昔は高野と書いていた(『小田原分限帳』)が音読としてはこの方が正しい。広谷は本来は曠野と書くべきであり、新田より一段古い開墾地で、開墾奨励のための無税地をいう。運上免除の特典があったのが、のちに固定して地名となり高谷・幸谷・興野などの文字も使用された。(韮塚一三郎『埼玉県地名誌』)
 この時代、村山党は入間郡東北方面に進出して、仙波、広谷、勝呂地方を盛んに開発したのであろう。
 このうちで、勝氏の名の見えるのは、承久(じょうきゅう)の乱である。承久三年(一二二一)六月一四日、宇治合戦のとき、「敵を討つ人々、須久留兵衛次郎一人」とあり、またそのとき、手負人のなかに須黒兵衛太郎が載せられている(『吾妻鏡』)。兵衛太郎は恒高(つねたか)で、兵衛次郎は弟の家時である。
 永禄(えいろく)五年(一五六二)の春、北条、武田の連合軍が比企郡松山城を攻めたとき、あれこれと選んだなかで、武蔵国の住人、勝式部少輔は利発弁口の士で、しかも太田資正の旧知であるから、究竟(くきょう)(都合のよい)の者だとして、城中へ使者に出された(『関八州古戦録』)。
 同じ頃に勝呂豊前守という人があったと伝えられている。この人は石井村に住み、小田原北条家に仕えたが、北条家没落ののちは、上総国久留里(くるり)へ行き里見家に仕えた。その後、里見家が断絶したので浪人となったが、やがて死亡した。(『新編武蔵風土記稿』)
 しかし、旗本勝(すぐろ)家の呈譜によると次のようになる。
政元 出雲守 平氏なりという。北条氏康に仕え、天正十八年、小田原没落ののち死す。

某 梅若 天正十八年、父死したのち、召されて東照宮に仕え、大和国で采地三百石を賜った。時に十三才。某年死す。嗣(あとつぎ)なく、家絶えた。

弟政成 梅乙 牛之助 次郎兵衛 天正十八年、兄と同じく召されて東照宮に仕え、大和国で百十石余の采地を賜る。時に十一才。のち御馬廻りとして、関ケ原・大坂両度の役に従い、元和九年、大猷(だいゆう)院殿(徳川家光)上洛に供奉(ぐぶ)して還御(かんぎょ)のとき、九月二日、大井川洪水のため、政成に川の深浅を計らしめたまうところ、ついに溺死した。年四十四。

 その後の子孫は、政重、正勝、正甫(すけ)、正慶(よし)、正扶(すけ)、正穀(よし)と、寛政まで七代つづいた。正扶のとき、御具足奉行として四一〇俵給せられた。勝家は、初めは「スグロ」と読んでいたが、のちには「カツ」と読むようになった。(『寛政重修諸家譜』)
 次に、仙波氏については、山口六郎家俊の弟家信は仙波(川越市)に住んで仙波七郎といい仙波氏の祖となるが、この家信は保元の乱に義朝に従っている。そして、彼の長子仙波平太信平、次子の仙波二郎安家は『吾妻鏡』に、頼朝の随兵として名を見せる。また、承久(じょうきゅう)の乱の宇治川合戦で負傷者の中に、仙波太郎、仙波左衛門尉、そして戦死者の中に仙波弥次郎がいる。それぞれ信平の子信恒、信平の弟三郎左衛門尉家行、そして安家の次子弥二郎光時と推定される。ただし「武蔵七党系図」には、信恒、家行ともに宇治川合戦で溺死したと註記してある。どちらが正しいかは分らない。
 次に金子氏であるが、山口家継の弟の家範(のり)が金子(入間市の西端)を本拠としたのに始まる。その長子の金子小太郎高範は、保元・平治(ほうげん・へいじ)の乱に従い、また、頼朝の奥州征伐に際し、供奉(ぐぶ)の人数に加えられ、さらに上洛にも随っている。彼は難波田(なんばた)(富士見市南畑)に居館をおき、難波田氏の祖となったが、彼の弟が源平合戦で、武勇を以て名を揚げた金子十郎家忠である。
 家忠は一九才で保元の乱に初陣(ういじん)し、平治の乱では、悪源太義平に従う一七騎の一人として奮戦している。源頼朝が挙兵のときには、村山党の一人として、三浦氏の衣笠(きぬがさ)城攻撃に加わったが、やがて頼朝の下に参向した。木曾義仲追討の宇治川合戦を始め、一ノ谷・屋島の戦には、弟の与一近範とともに転戦して戦功をあげた。特に屋島の合戦で、兄弟が、越中次郎兵衛盛嗣(もりつぎ)に立ち向って詞戦(ことばいくさ)をたたかわせ、「詮(せん)ない殿ばらの雑言(ぞうごん)かな。我も人も虚言(そらごと)云いつけ雑言せんに、誰かは劣るべき、去年(こぞ)の春、摂津国一の谷にて、武蔵相模の若殿ばらの、手並の程を見てんものをと、十郎家忠が云うところに、弟の余一、云わせもはてず矢を放てば、次郎兵衛の鎧(よろい)の胸板に、裏かく程に射抜いた。」(『平家物語』巻十一)のであった。