第一節 浅羽下総守の出現

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 この時代に、浅羽下総守という人物が現われた。その出身はおそらく南浅羽であろうか。北浅羽の浅羽家は、左近将監氏盛が正応(じょうおう)六年(一二九三)、平左衛門入道果円に一味して自害し、一族は手痛い打撃を受けたはずである。
 家系の上では、一〇〇年以上、数氏にわたって空白であったこの浅羽家に慧星の如く突然現われたかとみるまに、乱に巻きこまれて自殺し果てたのが下総守である。事件は永享(えいきょう)の乱であるから、この乱について触れてみたい。
 永享元年(一四二九)、足利義教(よしのり)が六代将軍になると、かねて幕府と不和であった鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)は、事ごとに幕府に反抗した。関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)はこれを戒めたが、ついに憲実とも不和になった。憲実は持氏との合戦を避けて、本国上野(こうずけ)に籠居した。しかし直情径行で、わがままいっぱいに育った持氏は憲実を許さず、永享一〇年(一四三八)憲実追討の軍を発した。これを機に将軍義教は持氏討伐を決し、諸将出兵を命じ、同年九月箱根足柄で持氏軍を敗った。持氏は金沢称名寺、次いで鎌倉の永安(ようあん)寺に退いて、髪をそり謹慎したが、義教はこれを許さず、翌年二月憲実に持氏の居所永安(ようあん)寺を囲ませたので、持氏は叔父満直(みつなお)以下三〇余人ととも自殺した。同時に、永安寺三重塔にこもった持氏夫人以下数十人の女房たちも、火を放たれてことごとく焼死した。
 これが、「永享の乱」の顛末(てんまつ)である。
 この乱の直接の原因となったのは次の事件であった。永享八年、信濃の守護小笠原政康と豪族村上頼清(よりきよ)との間に紛争がおこると持氏は憲実の諫止(かんし)をきかず、桃井左衛門督を大将として、上州一揆・武州一揆を差し向けようとした。鎌倉公方の支配は坂東(ばんどう)八国と伊豆・甲斐だけで、信濃は幕府の直轄する国であったから、持氏の信濃への出兵は、ただちに幕府への挑戦を意味した。憲実はこの暴挙を必死に止めたのでその時は中止となった。ところが、翌九年再び上杉憲直を大将として、武州一揆を信濃討伐に集めると、それは憲実を討伐するのだという風聞がとんだ。幕府と関東との仲をとりもつために苦心惨憺(さんたん)していた憲実も、もはや鎌倉に居たたまれなくなって、領国上野へ引上げた。その途中、武蔵国で一つのエピソードがあった。その模様は次のように記されている。
さるほどに、武州一揆ども馳せ集まって、上雷坂に陣をとり、大幕を引き、甲冑を帯し憲実を待ちかけたり。憲実の被官(ひかん)(家来)どもはこれを聞いて、何ほどの事かあるべき、蹴散らして捨てんとて、おのおの甲(かぶと)の緒をしめ、旗の手を下しければ、憲実堅く制して、いやいや然るべからず、某(それがし)の下向するは罪なきことを申し開くためなり。公方(くぼう)の御勢に向かって弓を引くべからず。あなたより切ってかからば、力なく防ぎ戦うべし、こちらより打ってかかるまじきよし、強(あながち)に下知(げち)したまえば、力なく皆陣をとって、忿(いか)りをおさえ対陣す。一揆の勢(せい)ども、憲実の大勢を見て、叶わじとや思いけん。その夜、上雷坂の陣を払って、散り散りになりにけり。さてしも道開け、憲実上州へ下りたまう。(「永享記」、「関東合戦記」)

 この上雷坂は不詳だが、日高町姥田(うばた)の雷山に比定するのは無理であろうか。ここは、鎌倉街道に沿い、付近には反憲実派の浅羽下総守の本拠があり、また地元の高麗には八文字一揆衆がいる。山麓には清水を湛えた池があって夜営には適地である。その上に、「雷」のついた地名は鎌倉街道沿いの武蔵には、他に見当たらないからである。
 憲実が上野へ下向すると、持氏はすぐ追討ちをかけようとして、武蔵府中の高安寺に出陣した。憲実はこれを聞いて、幕府に訴えて救援を求めた。幕府もただちに東北・関東の諸将に動員令を発した。その上に、持氏征討の天皇の綸旨(りんじ)(命令)までも賜わった。
 これを見た関東の武士たちは、「この上は、持氏の天命を逃れることはできない、と力を失い」(「関東合戦記」)、自分自身のことを考えるようになった。そして、各地の国人たち(一揆)のなかには、憲実に応ずるものが続出した。
 ここまでくると、持氏も追いつめられた袋の鼠同然であった。もともと持氏自身は、有力な直属の軍隊をもっているわけではない。彼の頼みとする武力は、上杉憲実の組織した武力であるが、これが今は敵方にまわっているのである。
 持氏は形勢不利とみて和平を申し入れたが拒否され、一一月四日、武州金沢の称名寺に入って削髪した。同月七日、長尾忠政(芳伝)が讒臣退治という口実で、数千騎を率いて称名寺を襲撃した。その時の状況を「永享記」は次のように伝える。
 さるほどに、追手の大将芳伝入道、あわい(間の距離)半町ばかりになって、馬を一足に颯(さつ)と抑えて、同音に鬨(とき)の声をあげた。上杉直兼の郎等草壁遠江と名のり、紺糸の鎧(よろい)に、同毛(色カ)の五枚甲(かぶと)の緒をしめ、瓦毛なる馬に乗って、最前に進み、父子四人少しもためらわず、大勢の中へ駈け入り、馬煙りを立てて切り合いけるが、切っては落し、八方を追い払って、一足も引かず討死す。これを見て帆足・斎藤以下の侍、声々に名乗り、敵のまん中へ会釈(えしゃく)もなく駈け入って、一騎も残らず討たれにけり。そのすきに一色直兼父子三人、上杉憲直父子二人、ならびに浅羽下総守以下一族門葉の人々、心静かに念仏申し、さしちがいさしちがい算を乱したる如く、重り合って死にけり。

 持氏の寿命(じゅみょう)だけ助けたいと、憲実は将軍義教に歎願したが、ついに許されず、永享一一年(一四三九)二月一〇日、その後移された鎌倉の永安(ようあん)寺で自尽した。この模様は「関東合戦記」によると、次のように記載されている。
 大石持朝(もちとも)と千葉胤直(たねなお)の両人が、永安寺へ参向し、御自害をおすすめ申す。伺候(お側に奉仕すること)の人々打出で、みな死す。持氏・満貞(弟)両御所自害あり。大御所(持氏)のお頸(くび)をば金子入道これを斬る。小御所(満貞)のお頸をば原太郎兄弟これを討つ。実検ののち、金子は常陸国下妻庄にて御恩を蒙(こうむ)り、原兄弟は遠江国にて御恩を蒙(こうむ)る。これらは、金沢合戦に上杉憲直に一味して討たれし下総守が子なり。下総守は讒言(ざんげん)の罪あるにより誅せらるといえども、この兄弟三人は、外祖原左馬介(すけ)貞信が吹挙(すいきょ)(推薦)によりて京勢(幕府方)に加わり、御所中へ乱れ入り、亡親の忠をあらわし、兄弟三人みな面々に一所懸命の地を安堵(あんど)せり。

 浅羽下総守の三人の子息は、親が忠を尽して自害した公方持氏や弟の満貞の首を討って、一所懸命の土地を安堵されたのであった。一所懸命の地とは、賜わった一か所の領地を生命をかけて、生活の頼みとすることであり、安堵とは、旧領地をそのまま賜わることである。
 とにかく、永享の乱で、武州一揆の多くが上杉憲実の味方に走ったが、浅羽下総守は持氏に対する忠節を守りぬき、ついに金沢称名寺で自殺した。これに反して、三人の子息は、父が忠を尽した持氏や弟の満貞の首を討って、その功によって、一人は常陸で、他の二人は遠江国で旧領を安堵されたのであった。