第二節 浅羽氏の子孫

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 浅羽氏の子孫は、その後どういう経路をたどったであろうか。「北浅羽万福寺由来」と『新編武蔵風土記稿』により、概要を記す。
 永享の乱に、当所重代の領主、北浅羽の下総守成行、同左衛門大夫成恒父子が相州鎌倉の合戦に討死して、子孫は久しく流浪の身となった。はるか後、永禄(えいろく)七年(一五六四)に南浅羽の浅羽右近将監資峯が旧里に帰ってしばらく居住していたが、また仔細(しさい)あって旧里を去って、上(下)野国佐野庄のうち免鳥(めんとり)の城を守った。大旦那を失ったので、当寺もしだいに衰えていった。天正十八年(一五九〇)小田原陣のとき、敵の軍兵乱妨して堂宇を破却し、空地となった。わずかに草庵一宇と小社一宇を残すだけになった。この後、南北両浅羽の子孫もいよいよ衰えて、氏神、菩提寺のことも知らないようになった。南浅羽については、「萱方村」の項によると、北条氏没落のとき、萱方城も天正十八年廃城となった。下総守は小田原城へこもり、その子の左近は小田原落城ののち、当所へ落ちてきたが、のち野州免鳥へ去った。やがてそこも立ち去って江戸へ行ったという。

 (今市村の農民半七の先祖は、浅羽下総守が子、右近というものであった。忍城で戦死ののち、子孫は相州へ移ったという。左近と右近は兄弟だったのだろうか。)

 上浅羽村の項には、土人の説に、昔は浅羽左近将監がこの地を領したと伝えているが、定かでない。

 以上の記事を総合すると、浅羽氏の活動の舞台は上州・野州方面へ移ったらしい。