下野国足利衆
旗頭 長尾但馬守 同心 毛呂安芸守
同 浅羽弥太郎
桐生衆
旗頭 佐野殿
岩付(槻)衆
旗頭 太田美濃守 浅羽下総守
勝沼衆
旗頭 三田弾正 毛呂
これを見ると、天正一八年(一五九〇)に小田原北条家の滅亡する二九年も前から、浅羽一族と思われる弥太郎は、上杉謙信旗下の足利衆のなかに組みこまれていたのであった。南北両浅羽家が浪々の身となったというのは、上杉家の家臣長尾但馬守の同心となっていたことをさすのである。また、岩付(槻)衆のなかに浅羽下総守の名が見えるのは、岩槻太田氏の配下にあったからであろう。これも上杉方である。勝沼衆とは、青梅市の勝沼城に拠(よ)った三田弾正忠綱秀の配下のことである。綱秀は山内上杉家の重代の家臣であるが、謙信の幕下にあることを発見されたのか、「幕注文」の作製された二年後、永禄六年、北条氏康に攻められ、勝沼城を捨てて二俣尾(ふたまたお)の辛垣(からがい)城に逃れたが、ついに滅亡した。坂戸市戸口の三田氏は、その遺族が落人として安住の地をここに求めたのだと伝えている。
浅羽右近将監や左近が郷里を去って、城の守りに行ったという野州免鳥はいかなる場所であろうか。『佐野市史』によると、免鳥の堡障(とりで)は栃木県佐野市免鳥町にあり、佐野城の支城であった。歴代の城主のなかに浅羽左衛門の名が見える。また天正一一年(一五八三)には、佐野の抱え免鳥の堡障に、浅羽右近将監資(すけ)岑が在城したことを伝えている。
当時、上州、野州は上杉謙信、武田信玄、北条氏康・氏政の勢力争いが激しく、三つ巴(どもえ)の合戦は絶え間がなかった。当地方の中小領主は、あるときは北条方に、またあるときは上杉方にというふうに、離反をくり返した。その都度、周辺の住民は戦火に見舞われていた。
佐野の城主佐野宗綱も初めは上杉謙信の幕下にあったが、のちには北条方に変身した。免鳥の支城を守る武将たちも、その度毎に、主家と同一行動をとらなければならなかった。
「関東幕注文」で謙信の幕下となっている浅羽下総守や、長尾但馬守を旗頭とする足利衆の浅羽弥太郎も、佐野へ行った動機は、桐生衆の旗頭に佐野殿がいる以上は、当然上杉方に属して一働きしようと思ったにちがいない。だが、状勢一変して佐野殿が北条方となった上は、主家といっしょに北条方に変身しなければならなくなったのであろう。
天正一二年七月二六日には、浅羽甚内と成友(左衛門か)は、北条氏忠方として上州金山城攻撃の道案内をつとめている。
小田原北条氏滅亡後の浅羽氏の行方は杳(よう)として分らない。かつて萱方城主だったという浅羽左近も江戸へ去ったというが、その後の行動は不明である。当地方にも浅羽氏の子孫だとして、系図をもっている家々があるが、下総守以後は中断した系図なので、不明な点が多い。
次に、上州、野州での浅羽氏の活動を示すため、一覧表を作ってみよう。
永禄四年(一五六一)「関東幕注文」の作製、佐野殿・浅羽下総守・浅羽弥太郎の名が見える。
同 五年(一五六二)上杉謙信は下野に攻めてきて、小山秀綱を降し、更に佐野を攻めた。当時、佐野宗綱は叔父の天徳寺了伯とともに北条氏に通じていた。
天正五年(一五七七)足利城主長尾顕長は大軍をひきいて免鳥城を攻略したが、佐野宗綱の来援によって奪還した。
天正一〇年(一五八二)浅羽右近将監資峯を、佐野の抱え免鳥の堡障(とりで)におく。(『関八州古戦録』)
佐野宗綱は彦間城を攻略する。
天正一一年(一五八三)佐野宗綱は須花城で討死する。佐野家はここで断絶せたが、北条氏政の弟の氏忠を迎えて、佐野の家名を継がした。
天正一二年(一五八八)浅羽甚内・成友(左衛門か)、小田原方にて、金山城の熊野口を案内する。
(資料)『群馬県の歴史』・『栃木県の歴史』
『関東古戦録』・『佐野市史』
浅羽一族は、旧里を去って、上杉謙信の作製した「関東幕注文」の下野国足利衆や武州岩槻衆の同心として、桐生衆の佐野殿に属し、免鳥城を中心にして働いたのであるが、時勢は一変して小田原北条方に所属しなければならなかったのである。