浅羽氏は家伝によると藤原氏であるという。児玉武蔵守惟行(これゆき)の四代目の小大夫行業(ゆきなり)のとき、武蔵国入間郡浅羽の郷(ごう)を領したことから家号としている。幸綱(よしつな)はその末孫である。
幸綱 東照宮に仕え奉り、のち豊太閤が小田原に発向するとき、旅館の饗応(きょうおう)および道路の奉行をつとめた。
幸次(よしつぐ) 東照宮に仕え奉り、伏見や駿府で奏者あるいは御勘定支配をつとめた。
幸正(よしまさ) 一三才のとき台徳院殿(二代将軍秀忠)にまみえ奉り、のち小姓となり、御手水(ちょうず)番をつとめたが、故あって出仕を止められ、そののち許されて小姓組に列し、下総国葛飾(かつしか)郡のうち、采地(さいち)(旗本の領地)二〇〇石を賜わった。(以下略)
旗本の浅羽家はこの二〇〇石の幸綱家以外に、三〇〇俵取りと、二五〇俵取りの二家がある。他に南部家家臣の浅羽家家や、水戸家御用人浅羽甚五右衛門家がある。
この浅羽家は、今まで述べた浅羽家とは別の道を歩いた一家らしい。幸綱(よしつな)は駿府にいる家康に仕え、秀吉が小田原征伐で東海道を通行するさいに、道路奉行をしたり、旅館での饗応(酒食のもてなし)の任務に服するところをみると、永享の乱で恩賞として遠江国の所領を安堵された原兄弟の子孫であろうと思われる。皮肉なことに、浅羽甚内、成友の二人は小田原北条方に味方して、上州金山城攻撃の道案内に励むかと思えば、この浅羽家は駿州でその北条を征伐するための道路奉行をつとめ、旅館での饗応に余念がなかったのである。