第一節 郡(評)・郷(里)の設置

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 武蔵国に郡(こおり)(評(こほり))がおかれたのは大化二年(六四六)以後で、どの郡(評)から置かれたかは定かではないが、奈良朝の天平宝字二年(七五八)に渡来新羅僧三二人、尼二人、男一九人、女二一人を移して新羅郡(のち改称されて新座郡となる)をおき、全郡が揃った。その中にあって霊亀二年(七一六)に、高句麗人一、七九九人を移して高麗郡が設置されたことは既述の通りである。
 平安朝の承平(じょうへい)五年(九三五)に源順(みなもとのしたごう)が著わしたという『和名類聚抄』によると、武蔵国には二一郡あった。

図3-9 武蔵国21郡
「大日本読史地図」より

〔東京都域〕  三郡

多摩郡・荏原(えはら)郡・豊島(としま)郡

〔神奈川県域〕  三郡

都筑(つづき)郡・久良(くらき)郡・橘樹(たちばな)郡

〔埼玉県域〕  一五郡

足立(あだち)郡・新座(にいくら)郡・入間(いるま)郡・高麗(こま)郡・比企(ひき)郡・横見(よこみ)郡・埼玉(さきたま)郡・大里(おおさと)郡・男衾(おぶすま)郡・幡羅(はら)郡・榛沢(はんざわ)郡・那珂(なか)郡・児玉(こだま)郡・賀美(かみ)郡・秩父(ちちぶ)郡

 郡のもとには郷があった。郷は五〇戸が一郷とされた。入間・高麗両郡の郷名をかかげると、
 〔入間郡〕
麻羽郷 川角村・鶴ケ島・坂戸町の大部分・入西村・大家村。

大家(おおや)郷 大井原として、南畑、水子、鶴間をいう(吉田東伍『大日本地名辞書』以下『地名辞書』と記す)。大在家村すなわち大家村に擬す。(埼玉縣編纂『埼玉縣史』以下『縣史』という)

郡家(ぐうけ)郷 郡司のおるところで、郡衙の所在地。入間川町(狭山市)・奥富・堀兼を当てる(『縣史』)。鶴ケ島町若葉台も候補に上る(『新編埼玉県史』)。

高階(たかしな)郷 地勢の高丘起伏する場所として、毛呂・越生をさす(『縣史』)。所沢、山口、宮寺付近である(『地名辞書』)。

安刀(あと)郷 所沢市内の本郷・北野・久米方面(『縣史』)。

名細村上戸をあてて、上戸(うわど)・的場・三芳野付近とする(『地名辞書』)。地元の大図口承氏は「古代安刀郷に関する一考察」(※註)で、赤尾・越辺(おっぺ)・吉田・粟生田がその範囲に入るとする。

山田郷 川越市仙波および山田村一帯(『縣史』)。

広瀬郷 水富・柏原・元加治等の旧加治領(『縣史』)。

余戸(あまるべ)郷 令制の村落制度では、五〇戸一郷(里(さと))を原則としたが、五〇戸を超えた場合、九戸までの超過を認めるが、一〇戸を超えた場合には新たに一郷(里)を立てるという特例があった。余戸郷は一〇戸以上剰余の小村である。

 三芳野村・勝呂村の一部、横沼・小沼・赤尾付近としている(『縣史』)。

〔高麗郡〕
高麗郷 高麗本郷といわれた地で、高麗・高麗川・高荻の各村である。

上総(かみつふさ)郷 移住した高句麗人のうち、上総国にいた人々をまとめておいた郷。のちに転音で加治庄といわれた地域で、飯能町・加治・精明・原市場の諸村にわたる。(『縣史』)

  〔註〕
坂戸市教育委員会『坂戸風土記』4号所収