第三節 高麗郡の膨張発展

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 霊亀二年(七一六)高句麗からの渡来した人々一、七九九人が、武蔵国に移住し、高麗郡が設置され、高麗・上総(かみつふさ)の二郷に分れ住んだことは前述の通りである。
 その後の高句麗渡来人は、永い歴史の経過のうちに、この小天地に跼蹐(きょくせき)してはいなかった。彼らのエネルギーは膨張と発展をくり返し、入間郡に進出した。ついに、三芳野村・山田村の境に楔(くさび)を打ちこんで、入間郡を両断した(図―12)。そのため、入間郡は入東・入西の二郡に分断された。

図3-12 入間郡・高麗郡・秩父郡(一部)(明治二九年四月現在)

 入間郡進出の時期は明らかでないが、数段階に分れ、年月をかけて行われたものであろう。最初の高麗郡の境域は日高町高萩の小字釘貫が東端であったと口碑は伝えている。そこには釘貫(くぎぬき)門があったというのである。次に、笠幡(かさはた)の芳地戸(ほうぢど)が入間郡・高麗郡の郡境となったという(高橋源一郎『武蔵野歴史地理』)。芳地戸は榜(〓)示(ほうじ)のあるところであり、榜は境界を示す立札のことである。この榜示は修験道の影響をうけて信仰の対象となり、神聖なものとして永く保存されるようになったのである。
 文献の上で、かつて入間郡に属した村々のうち、後年にいたって高麗郡に編入されたものをあげると次のようである。
広瀬村(水富村)『和名類聚抄』には入間郡とする。

篠井(ささい)村( 同 )天正一九年(一九九一)、観音堂の御朱印に入間郡篠井村とする。

三芳野     『伊勢物語』には「入間の里」と書いてある。

上戸(うわと)村(名細村)三芳野塚がある。

的場(まとば)村(霞ケ関村)三芳野道場がある。

仏子村(元加治村)宝暦一〇年(一七六〇)、高正寺の鐘銘に入間郡仏子邑(むら)とある。

我野(あがの)村 元は入間郡我野村と称えていた。

高麗郡境域の変遷

八世紀前半(奈良時代) 小畔(こあぜ)川上流域に高麗郡が設置される。(日高町教育委員会「日高町遺跡調査報告書」を参考として分析)

一〇世紀前半 九三〇年(平安中期)
この頃までには、小畔川・下小畔川の上流域に高麗郷があり、南小畔川上流域には上総郷があった。(同右)

一三―一四世紀(鎌倉時代―南北朝時代)
この頃には、高麗郡の境域は、平沢(一二四八)・柏(原)(一二三九)・大町(一三一二)・賀作波多(かさはた)(一三三三)・広瀬(一二〇八)の、小畔川の中流および南方に拡大していた。(『新編埼玉県史』中世編を参考として分析)

一五―一六世紀(室町時代―織豊時代)
更に、吾野・原市場・南高麗・飯能・加治を結んだ線と、町屋(※)まで拡張していった。( 同 )

※この時期に、臑折が飛地になっている。

一七世紀(江戸時代)以降
鶴ケ島町の大部分は高麗郡に編入されている。(『鶴ケ島町史』近世資料編ⅠⅡ)