〔註〕
(1) 鎌倉将軍の家臣をいう。
(2) 得宗の家臣のことを〝御内方(みうちがた)〟あるいは〝御内の人々〟という。将軍の陪臣にすぎない〝御内人〟が、将軍の直臣(御家人)より重くみられるようになり、彼らは、北条氏の権威を背景にして、しだいに幕府の政治的機構にはいりこみ、政治権力をにぎる。
(3) 鎌倉幕府の執権となった北条氏の嫡流の当主。
(4) 執権を助けて政務を総括し、公文書に執権とともに署判する重職。
この北条宗方は、得宗家傍流の出身でありながら、政治の実権を握り、御家人層の衆望をになっていたという。
この乱で、宗方の命を受け、時村殺害の先頭を切った一二人の武士のうちに、北条氏嫡流に奉仕する〝御内人〟の豊後五郎左衛門光家という人物がいた。この人こそ加治氏系図に、家貞の父として現われる光家のことであろう。加治光家は通称が五郎左衛門であり、豊後というのは、曾祖父家茂も、孫の季貞も豊後守であるから、家伝の官職名であろう。系図には、光家の父家景がこの乱に斬首されたとあるが、これはたぶん子の光家の註を書き誤ったものであろう。
入間市野田円照寺に、嘉元(かげん)三年八月八日「孝子等敬立」と刻んだ板碑がある。円照寺は加治氏の菩提寺である。加治氏の誰かが、この乱で殺された光家と兄(弟)の助家の追善供養のためにたてたものであろう。
円照寺には元弘(げんこう)三年(一三三三)五月二二日の日付で、道峯禅門を供養した板碑がある。この板碑は、嘉元三年の板碑とともに、非常に珍しい禅宗の板碑とされている禅宗風な詩文の偈(げ)(仏の教えをほめたたえる詩)が彫りこまれている。元弘三年のほうには「乾坤(けんこん)、孤〓(こきよう)(一本の杖)を卓(た)つるの地なし、只(ただ)喜ぶ『人空(ひとくう)にして法も亦(また)空なり』と、珍重す大元三尺の剣、電光影裏春風を斬る」という偈がある。これは、禅僧の無学祖元(むがくそげん)がかつて元(げん)の兵に捕えられ、殺されそうになったときにとなえた偈として有名である。
この板碑で供養された道峯禅門とは、加治家貞のことであり、元弘三年五月二二日は、北条高時が、新田義貞に鎌倉を攻め落され、一門、御内の者とともに、葛西ケ谷(かさいがやつ)にある北条氏代々の墓所東勝(とうしょう)寺で自刃した日である。『太平記』によると、義貞軍迎撃のために出陣した幕府軍のなかに「加治二郎左衛門入道」とあるが、これは加治家貞のことであろう。彼は故郷に近い小手指(こてさし)原で、鎌倉に迫る義貞軍を防ごうとしたが、奔流の如く押し寄せる大軍に打ち破られ、鎌倉陥落の日に幕府と運命を共にしたと考えられる。鎌倉の炎上と共に死に赴いたのも、彼が「御内人」だったことを物語るものである。鎌倉幕府に殉じて滅び去った人びとは、北条氏一門と、御内人、その従者たちで、一般御家人はほとんど発見されなかったからである(網野善彦「蒙古襲来」)。
ともあれ、鎌倉末期には加治氏は得宗北条の御内人として、最も威勢を張った時期であった。次に掲げる加治領が鎌倉末期までに拡張されたかどうかは不明だが、加治領(※註1)は四七か村を数えるにいたっている。
唐竹 赤沢 原市場 上直竹 下直竹 苅生
小岩井 小瀬戸 大河原 上畑 下畑 永田
飯能 久下分 矢颪(やおろし) 前ケ貫(ぬき) 岩渕 落合
阿須 仏子(ぶし) 上岩沢 下岩沢 笠縫 真能寺
中山 中居 青木 双(なみ)柳 野田 篠井
根岸 下広瀬 芦刈場 上川崎 下川崎 平松
小久保 下加治 宮沢 馬引沢 田木 上大谷沢
下大谷沢 中沢 脚折(すねおり)
〔註〕
(1) 加治領四七か村は、『新編武蔵風土記稿』では四五か村である。加治領の構成は、上総郷に属するとみられる四〇か村に篠井・根岸・下広瀬・平松・脚折の五か村を新たに加わえたものであろう。ちなみに高麗郡のうち、高麗領を除いた北方の諸村は、加治領ではない。(柏原・的場・平塚・上戸・下小坂・鯨井・小堤・上広谷・下広谷・五味ケ谷・戸宮・藤金・太田ケ谷・高倉・笠幡・三ツ木・高萩・下高萩・上鹿山)
図3-13 加治氏系図
武蔵七党系図による