「御内人(みうちびと)」加治二郎左衛門入道が、鎌倉幕府没落とともに、これに殉じて以来、加治家は衰亡したことと思われるが、次の南北朝擾乱(じょうらん)の時代になると、鎌倉幕府を倒した張本人の一人である足利尊氏に属して「戦功を抽(ぬき)んで」、多くの御教書(みぎょうしょ)・下文(くだしぶみ)・軍忠状・感状を町田家文書として残した高麗氏の人びとがいた。
その文書の一つに「高麗彦四郎経澄(つねずみ)軍忠の事」という「軍忠状」がある。この文書は「右軍忠の次第斯(かく)の如し」と締めくくってあるが、その要旨を次に述べる。
暦応(りゃくおう)元年(一三三八)足利尊氏は正式に征夷大将軍に任ぜられ、弟の直義(ただよし)と政務を分担し、兄弟仲よく二頭政治を行った。
しかし、この協調は長くはつづかなかった。直義を支持する勢力と、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)を中心とする勢力の利害が対立し、観応(かんのう)元年(一三五〇)にはついに幕府は分裂し、中央官僚と地方守護の大部分を両派に巻きこんで争乱に突入した。これを「観応の擾乱(じょうらん)」という。
観応二年一一月、尊氏は直義討伐のため京都を出発して東国へ向った。そのとき関東では、下野の宇都宮氏が尊氏に呼応して兵をあげたので、鎌倉にいた直義は軍を二手に分け、一方では宇都宮氏を攻めさせるとともに、他方では薩〓(さった)山(静岡市興津(おきつ)と、由比町の境にある東海道の難所)を攻めさせた。このとき埼玉の武士たちは、尊氏・直義両方に分れて戦ったが、児玉党の如きは、薩〓山攻撃に参加して多数の死傷者を出した。
高麗経澄は観応二年(一三五一)八月、直義の命を受けて宇都宮へ攻めに行った。ところが、鎌倉から下向して、宇都宮氏を攻めに行ったはずの薬師寺加賀守入道公義(きみよし)が寝返って尊氏方につくようになったので、経澄も一転して、八文字一揆をひきいて尊氏軍に加わった。
宇都宮氏に従った経澄は、南下して鬼窪(白岡町)を経て、羽称蔵(浦和市・志木市の境)で直義についていた難波田氏(富士見市)を破り、次いで当時武蔵国の守護代をしていた吉江氏(直義任命の)を阿須垣原(杉並区阿佐ケ谷)で破り、府中に押寄せて敵を敗走させ、小沢城(川崎市の西北隅)に押しかけて焼き払った。また足柄山で敵を追い落した。と軍忠状に記載してある。
その他、戦功をたてた合戦は、正平(しょうへい)七年(北朝では文和(ぶんな)元年)(一三五二)三月二〇日に、人見ケ原(府中市人見)で、二八日には高麗原(日高町新堀付近)での合戦に手柄をたてた。
延文(えんぶん)四年(一三五九)二月七日には、「南方凶賊退治」のため参洛せよとの「軍勢催促状」が来ている。これは、『太平記』巻三四に、この年一〇月八日「東八ヶ国の大名・小名一人も残らず、みな催促に従いける」という軍勢を率いて、畠山入道道誓(どうせい)(国清)が上洛したという記事と一致する。この南朝攻撃軍、すなわち「南方凶徒退治軍」は、一二月二三日には都を立って南方へ向ったが、畠山国清は搦手(からめて)の大将として、東八ヶ国の勢(せい)二〇万騎を引率して、八幡の山下に陣を取った、と記述する。
経澄は尊氏軍に属して、数々の軍功をたてたのであろう。貞治(じょうじ)二年(一三六三)六月二五日には、北方地頭殿という宛書で、室町将軍義詮(よしあきら)の御教書をもらっているが、翌三年九月には、武蔵国高麗郡笠縁(縫か)北方郡分の、滞納した絹の年貢を直納させて、決算報告書を提出するよう催促されている。
この文書によって、彼は笠幡以北の高麗郡半分の地頭職に任ぜられたのがわかる。
高麗四郎左衛門季澄は、観応三年(正平七年)二月二〇日、八文字一揆をひきいて、金井原(小金井市前原)の合戦に勇敢に戦った。また、同二八日の高麗原の戦には、経澄とともに戦功を抽(ぬき)んでた。
高麗五郎左衛門尉は、経澄と同じく、延文四年二月七日に、「南方凶徒退治」のための参洛催促状を受けている。
高麗掃部(かもん)助清義は、武州北白旗をひきいて、至徳(しとく)四年(一三八七)九月二七日から、嘉慶(かきょう)二年(一三八二)五月一八日にかけて、常陸の小田讃岐守入道の子息以下の輩(ともがら)を退治するとき、先駈(さきがけ)をして戦功をたてた。
以上見るように、北方地頭としての高麗一族は、東奔西走して南朝方との合戦に明け暮れたのであった。その武功に対する恩賞として、高麗郡北方の地頭職を与えられたのであろう。その結果、高麗郡は入間郡の奥深く、楔(くさび)状に食いこんで、明治二九年の図に見るような形で、入間郡を東西に分断したのだと考えられる。
鎌倉時代には北条氏得宗の御内人としての加治氏は南方へ発展して加治領を拡大し、南北朝から室町時代にかけては、北方地頭としての高麗氏が、北方へ高麗領を押し進めたのであった。