第一節 鎌倉街道の経路

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 武蔵国の西郊を歩いた人びとは、しばしば経験するであろう。この地方では多くの土地で鎌倉街道の跡だということが伝えられていることを。ある土地では、その所在が全く雑草に埋もれてしまって不明になっている。また、当時の宿駅であったことが史上では確実に存在しながら、今では全くその位置すらわからなくなっている。
 鎌倉街道は、当時の日本の首都である鎌倉から、武蔵国第一の都市であり、政治・経済・文化の中心であった府中に通ずる幹道であった。また、府中からは北方ないし北西の国々の国衙へ通じていた。
 鎌倉時代のこの街道の状況については、尼僧となって諸国を遍歴した久我大納言雅忠の女の『問はず語り』の記すところによると、
野のなかをはるばるとわけゆくに、はぎ、をみなへし、をぎ、すすきよりほかは、またまじる物もなく、これが高きは、馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや、わけゆけども尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りは、こしかたゆくすゑ野原なり。

 これは、正応(しょうおう)三年(一二九〇)秋八月に、武蔵野の秋を探るために歩いた日記である。この野中の道は、馬に乗った男さえも見えなくなるほどに、萩・女郎花・荻・芒などが生い茂った道であった。三日つづけても尽きることのない広い武蔵野のなかであった。しかし、ちょっとその道を傍に入ると宿駅などもあるが、はるばる行く一本道は、うしろも前も野原であった。というのである。
 この街道は道幅も馬二頭が並んでやっと通れる狭い道ではあったが、それでも在地の御家人である地頭が農民を指揮して建設し、普請に力を尽くした道であった。その中で特に有名な道は鎌倉街道である。
 単に鎌倉街道といっても、その経路については多方面にわたっていた。武蔵国を通ったものだけをとっても四つの幹道があった。上(かみ)の道・中の道・下(しも)の道と秩父道である。上の道は信濃道ともいい、関東地方の西部を北に向う道である。中の道は奥州道ともいわれ中央部を北上する。下の道は東部を北上し、途中右折して房総・常陸へ向かう道である。秩父道は西部の山麓沿いに、横山・由井・五日市町・青梅市・山伏峠を通り秩父市へ向かう道である。
 今、取り上げるのは、当町内の町屋を通る上の道である。
 その経路は次の通りである。
鎌倉化粧坂―山崎・梶原の間―寺分―柄沢―俣野(大船へ出て横浜市田谷町を通り、俣野に到る道もある)―飯田―横浜市瀬谷―長津田―府中である。府中からは、

国分寺―久米川―入間川駅―(入間川を渡る)―上広瀬―女影―鶴ケ島町町屋―森戸―(高麗川を渡る)―市場―大類―苦林―赤沼―大橋―将軍沢―菅谷―赤浜―(荒川を渡る)―児玉―(神流(かんな)川を渡る)―藤岡―高崎西方―碓氷峠―信濃国府


図3-14 鎌倉街道上道・関連文化財と遺跡
埼玉県教育委員会『鎌倉街道上道』による


〔備考〕 ●印は板碑
 文化財・遺跡は次の番号で示す
1 女影古戦場
2 竹ノ内館跡
3 千手観音
4の一梵鐘
4の二若光の墓
5の一大般若経
5の二高麗氏系図
6 町田家文書
7 高岡廃寺跡
8 高岡窯跡
9 大寺廃寺跡
10 田波目城跡
11 萱方城跡
12 浅羽野
13 大塚屋敷跡
14 三福寺館
15の1薬師如来
15の2三福寺中世墓跡
16 大類氏館跡
17 苦林古戦場
18 宿谷氏館跡
19 毛呂氏館跡
20 竜ケ谷城跡
21の1出雲伊波比神社棟札
21の2出雲伊波比神社やぶさめ
22 毛呂城跡
23の1阿弥陀如来
23の2聖観音
24 斎藤氏館跡
25 村田和泉守館跡
26~37文化財指定の板碑

〔備考〕
 鎌倉街道は、鶴ケ島町内に入り、台地の上を南北に縦断する真直ぐな堀割状の遺構となって、約七〇〇メートルにわたって認められる。規模は平均して、下幅約二メートル、上幅約七メートル、深さ一―二メートルである。現在は、降雨のさいの排水路として利用されている。


町屋の堀割状道路遺構

 この街道について、埼玉県教育委員会は昭和五六年、五七年の両年度にわたり、文化財保護の目的で、県下一九市町村から三九人の地区調査員を委嘱して、大規模な調査を実施した。その結果を『鎌倉街道上道』に発表しているので、所沢以北から当町付近に至るまでの道筋についての報告を左に記述することにする。
 所沢市から狭山市にかけて広がる武蔵野の原野を北進して来た街道は、まもなく狭山市入間川の地に入る。ここは清水冠者源義高の悲劇や、足利基氏の入間川御所滞陣などの逸話で知られる入間川宿の故地にあたり、中世には上道筋の軍事経済の要衝の地であったことは改めて説くまでもない。この宿の北方で入間川を渡河した街道は、『信濃坂』『オオジユウドウ(奥州道)』と呼ばれる地点を経て、入間台地に馳せ上り、日高町大谷沢から『太平記』で知られる女影(おなかげ)原の古戦場を通過して、鶴ケ島町・坂戸市の西端(町屋・森戸)をかすめ、毛呂山町市場に至る。この区間は、比較的に古道の面影を残す部分が多く、日高町大谷沢の第二小畔(こあぜ)川の右岸、同女影の霞野神社南、鶴ケ島町町屋、坂戸市森戸、そして毛呂山町市場の小字大林坊・鎌倉道の地点には、各々掘割状の道路遺構が現存する。なかでも、日高町の第二小畔川の右岸と、毛呂山町市場の遺構は保存状態がよく、往時の鎌倉街道の規模の一端を垣間(かいま)見ることができる場所といってよい。

 毛呂山町の東北隅を縦断した街道は、ほどなく越辺(おっぺ)川を渡り、鳩山町今宿の集落の西側を抜け、比企丘陵内に入り、新田義宗と宗良(むねなが)親王の軍勢が武蔵野合戦に際して、最後の陣を張った地として知られる笛吹峠に向う。鳩山町内にも数ヶ所街道跡と伝えられる掘割状の遺構が認められるが、いずれも断片的で明確な姿を残しているものは少ない。笛吹峠を越えると嵐山町で、街道は、現在の町道の東側に並行して、切れ切れに残る堀割状の道路遺構を辿って、田村麻呂将軍の故事を伝える将軍沢の集落に至る。ここから、久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五)、帯刀先生(たてわきせんじょう)源義賢(よしかた)と義朝の子悪源太義平(よしひら)が武蔵国の覇を争って軍さをした地に比定される大蔵、また北武蔵の勇将畠山重忠が居を構えたとされる菅谷の地はほど近い。

 「鎌倉街道」上道のこのコースや宿の所在を語る古書としては、『宴曲集』のなかの「善光寺修行」の段がある。宴曲とは日本中世歌謡の一つで、貴族や武士などの間で、宴席などで歌われたものである。物尽し、道行きなどが多く、七五調を崩したかなり長文の歌詞を明確なリズムに乗せて歌ったという。扇拍子で歌い、時には尺八を用いることもあったらしい。沙弥明空の撰になり、鎌倉時代末期の正安(しょうあん)三年(一三〇一)頃に成立とされているので、この頃の上道筋の実情を伝えていると考えてよいであろう。
 そのうちの「善光寺修行」は、鎌倉から信濃の善光寺までの道行(旅行く道々の光景や旅情を述べた韻文(いんぶん)体の文章)を詠みこんだ曲である。
 この宴曲に出てくる当町近辺の地名は、
久米河(東村山市)・掘難(ほりがね)の井・入間川(狭山市)・婦(いも)(女影)・もりて(坂戸市森戸)・大蔵(嵐山町)・槻(つき)川(嵐山町の川)・比企野原(比企郡)・吹上(嵐山町川島)・ならぬ梨(小川町奈良梨)・荒川
(前略)

かく程袖をぬらすべしとは、久米河の逢瀬をたどる苦しさ。武蔵野はかぎりもしらずはてもなし。千草の花の色々。うつろいやすき露の下に、よはるか虫の声々。草の原より出る月の。尾花が末に入るまでに。ほのかに残る晨明(ありあけ)の。光も細き暁。尋ねても見ばや堀難(堀兼)(ほりがね)の。出難かりし瑞籬(みずかき)(※註1)の。久しき跡や是ならん。あだながらむすぶ契(ちぎ)りの名残をも。深くやおもひ入間川。あの此里にいざ又とまらば。誰にか早敷妙(しきたえ)(※註2)の。枕ならべんとおもへども。婦(いも)(女影)にそはずのもりて(森戸)しも。おつる涙(※註3)のしがらみは。げに大蔵に槻川の。流れも早く比企野が原。秋風はげし吹上の。梢もさびしくならぬ梨(奈良梨)。打渡す早瀬に駒やなづむらん。たぎりておつる浪の荒河行き過ぎて……(『続群書類従』)

  〔註〕
(1) 「久し」の枕詞

(2) 「枕」の枕詞

(3) せきとめるもの