源頼朝が鎌倉幕府を創設すると、鎌倉街道を建設・整備することが急務となった。鎌倉が政治的・軍事的中心となったからである。ことに関東北部は源氏の武士団の根拠地であり、足利・新田・佐竹などはその代表的存在であったが、彼ら源氏の武士団と鎌倉幕府との連結は極めて重要であった。もちろん、全面的に鎌倉街道が新設されたものではあるまい。北関東の国府と武蔵国府を結ぶ古道は、すでに平安末には、大体の道筋は通じていたと推測される。しかし、政治的・軍事的に重要な任務をもつ鎌倉街道上道としては新設したり、所によっては整備したりしなければその機能を発揮することはできなかったであろう。比企・入間・高麗のような、単なる平地つづきでなく丘陵や台地の起伏のはげしい地方では、低地と高地をただつなぐだけでは、街道としての使命を果せない。鎌倉街道の遺構がよく保存されている地区では、低地との境界部分で勾配を緩和するために土取り工事を行って、堀割り形の整備が行われている。また、高低の差のはげしい崖状の部分では箱薬研(やげん)状(箱型やげん掘り)に掘削している。
この街道は、道幅は三メートルから四メートルの広さをもち、河川などの特別な障害のない限り平野部では直線的なコースをたどっている。
以上のような道路状況をみても、鎌倉街道は、鎌倉幕府の政治的・軍事的な要請から、一定の計画に基づいて、幕府が拡幅整備や新設したものであろう。しかし、このような大工事を実際に担当したのは、御家人である地頭が、領内の農民を駆使して完成したものであろう。
また、数百年にわたって使用されたこの街道の整備・補修や、街道の警備、犯人の捜索逮捕等の付随的な任務も、近在の御家人・地頭にまかされたのであろう。