世良田―(利根川を渡る)―高島(荒川を渡る)―畠山―高見―(鎌倉街道に入る)―菅谷―笛吹峠―苦林―女影原―入間川―小手指原―久米川―金井原―人見原―府中―分倍河原―相州関戸……鎌倉
であるが、途中激戦のあったのは、先ず五月一一日の小手指(こてさし)原であった。鎌倉から北上してきた桜田貞国(北条氏の一門)と戦ってこれを破り、さらに一三日には久米川で戦い、一五日には多摩川の分倍(ぶばい)河原で戦ったが、長駆疾走した新田軍は敗れて、いったん堀兼へ退いた。一六日未明、多摩川を背にしていた北条泰家(やすいえ)(高時の弟)の軍勢へ総攻撃をしかけた。北条軍は総崩れとなって敗走した。新田軍はそれを追撃して、多摩川を渡り相模の関戸に到着した。追撃はさらに続き、一七日、藤沢に達した。
義貞のひきいる軍勢は新田の一族だけではなかった。義貞に呼応して、関東各地の武士団がぞくぞくと馳せ加わり、軍勢はみるみる雪だるまのように大きくなった。誰か姿をあらわさぬ人物が、かげの総司令官となって、一斉に進撃するよう指令するかのようだったという。
一八日、鎌倉幕府への総攻撃が始まった。二二日、北条高時が自刃するまで、連日かたときの休む間もなく死闘がつづいたが、ついに北条氏代々の墓所東勝寺で、一門、御内人残らず自殺した。