北条高時が一三三三年(元弘三年、正慶(しょうきょう)二年)に鎌倉で自刃し、鎌倉幕府が滅亡すると、幼少であった高時の次子相模次郎時行は、諏訪三郎盛高に擁せられて、ひそかに鎌倉を脱出した。そして、信濃の諏訪社の神官諏訪頼重のもとにかくまわれていた。
建武(けんむ)二年(一三三五)になると、建武新政権の諸政策に対して地方の武士たちは、しだいに不満をつのらせていた。また、滅亡した北条氏の旧恩を思いその再興を画策するものもいた。彼らは北条氏遺臣を擁して、各地で挙兵する事件が続出した。
その年七月になると、時行は諏訪頼重とその子時継、滋野一族に擁せられて信濃で挙兵した。守護小笠原貞宗の軍と合戦してこれを破り、勢いにのって鎌倉めざして進撃した。途中、新政権に不満のもの、北条氏恩顧のものも馳せ加わり、「伊豆・駿河・武蔵・甲斐・信濃の勢共(せいども)、相つかずということなし。時行その勢(せい)を率いて、五万余騎鎌倉へ攻め上りける。」(『太平記』巻十三)。
時行軍は、鎌倉街道上道のコースを進み、女影(おなかげ)原(日高町)・小手指(こてさし)原(所沢市)・府中(東京都府中市)で足利軍と交戦したが、足利直義(ただよし)の妻の兄渋川義季(よしすえ)や小山秀朝(おやまひでとも)は、女影原で潰滅的打撃を受けて自害した。
七月二二日、執権直義みずから出陣して武蔵の井出沢(いでのさわ)に敵を迎え討ったが、また敗れ、単身夜にまぎれて逃れ、そのまま東海道を西走した。鎌倉はたちまち混乱に陥った。
七月二五日、時行は足利軍を一掃して、鎌倉に入った。
この争乱を「中先代の乱」という。高時以前の北条氏を「先代」とよび、足利氏(尊氏)を後代とよぶのに対し、時行を中先代と称するからである。
この敗戦の混乱に乗じて、直義は渕辺義博(ふちべよしひろ)という者に命じて、護良(もりなが)親王を、監禁しておいた薬師堂で殺害した。