ところが、正平(しょうへい)七年=観応(かんのう)三年(一三五二)二月、足利尊氏は今までとかく不和であった弟の直義(ただよし)を毒殺した。直義が殺されると、直義党の上杉憲顕(のりあき)は反尊氏の立場を明らかにした。形勢が新田党に有利に動き出したのであった。これをみた新田義興・義宗は、宗良(むねなが)親王を奉じて、閏二月一五日、上野国で挙兵し、武蔵国に進入した。このとき、かつて直義に従っていた児玉党・丹党・猪俣党などの北武蔵の武士たちの多くは新田軍に参加した。
同年閏二月二〇日、義興軍は大挙して小手指原に着陣した。これに対し、尊氏もみずから出陣し、高麗氏をはじめ、河越・江戸・豊島・鬼窪・渋江ら県南部の武士たちが尊氏軍に参集した。
こうして、小手指原で戦闘が開始されたが、児玉党の奮戦で、尊氏軍は敗北し石浜(台東区浅草付近)へ退いた。これが有名な武蔵野合戦である。
新田義宗の軍も相当な打撃を受けたので、笛吹峠(比企郡鳩山町)に退いた。
一方、義興・義治軍は、勝ちに乗じて方向を一転し、空虚となった鎌倉を襲い、留守をしていた基氏を追い、一時は鎌倉を占領した。
石浜に退いた尊氏は、五日後には甲斐の武田一族の援軍も到着したので、態勢を整えて府中に進軍した。小手指原・高麗原(日高町)で戦い、二月二八日には笛吹峠の新田軍に攻めかかり、ついにこれを撃破した。この戦いで、高麗一族は八文字一揆を結成し、尊氏方について軍忠をあらわした。
敗戦の新田義宗は、このあと越後へ落ち、上杉氏は信濃へ落ちた。鎌倉でこの知らせを聞いた新田義興らも鎌倉をすてて越後へ逃れた。
〔備考〕
この武蔵野合戦は『太平記』巻第三十一に詳しい。