以後は、関東公方・執事と、関東の豪族・中小武士団との対立・抗争の新しい段階へとはいっていった。
康安(こうあん)元年=正平一六年(一三六一)、関東執事畠山国清は、その横暴に耐えかねた国人領主たちから、執事罷免の要求を関東公方基氏に提出された。基氏はその要求を拒否できず、国情を追放した。すると国清は伊豆に走って、反旗をひるがえした。この反乱で、討伐軍との間に戦いがつづいたが、翌年、国清は降伏し、基氏の処刑をおそれて逃亡した。
関東執事畠山国清を追放した基氏は、関東の伝統的な豪族や、中小の国人層を掌握できる人物として、上杉憲顕を執事に復起させた。憲顕は、武蔵野合戦には新田軍と協同して尊氏に反逆した人物である。しかし、国清の反乱によって動揺した政局を安定させるだけの人物は、憲顕以外には求められなかったからである。そこで、貞治(じょうじ)二年(一三六三)、憲顕の帰参を懇望して関東府に迎えた。同時に越後の守護にも任命した。
ところが、憲顕の復起はスムーズに実現したわけではなかった。越後の守護を今まで勤めていた宇都宮氏綱と、守護代芳賀(はが)兵衛入道禅可(ぜんか)は、反復常なき憲顕の起用に反対した。それを阻止するために、関東管領軍と各地で合戦をくりひろげた。
ところが、憲顕がすでに執事になって鎌倉入りをすると聞いて、大いに怒り、上野(こうずけ)の板鼻に陣をしいた。すると、これを聞いた基氏は「勝手に合戦を企てるとは奇怪至極、退治すべし」ということで、自ら兵を率いて鎌倉を立った。
こうして、正平一八年(一三六三)六月、禅可は長男伊賀守高貞、次男駿河守に八〇〇余騎を差添えて、武蔵国へ向かわせ、一七日には苦林野(にがばやしの)(毛呂山町)に到着した。基氏の軍は東には白旗一揆(※註1)五千余騎、西には平一揆(※註2)三千余騎、中の手には基氏みずから三千余騎を率いて対陣した。
〔註〕
(1) 北武蔵・上野にいた源氏の中小武士によって構成された武士団。別符・久下・高麗氏などである。白一色である。
(2) 南武蔵の河越・高坂・江戸・豊島氏など、平氏系国人によって構成。赤一色である。
戦闘は辰の刻(午前八時頃)に開かれ、両軍烈しく戦ったが、芳賀方は敗れて宇都宮へ退いた。苦林野の北方、東松山市の岩殿には基氏館跡と称する館跡がある。「集古文書」によると、「基氏は貞治二年八月二十日に発向、武州比企郡岩殿山で八月二十六日に戦った」とある。苦林野の合戦はその頃であろうか。