県内には、多くの館跡(やかた)と称するものが残っているが、御家人たちにはその館へ通じる道も必要であった。この道も鎌倉路とか鎌倉街道とか呼ばれているが、これは御家人の館と鎌倉街道とを結ぶ支道であった。
町内にも、町屋の鎌倉街道のほかに、鎌倉街道と呼ばれる道が残っている。
この街道については、『鶴ケ島研究』1に玉利秀雄氏の「若葉台遺跡と周辺の古道」と、埼玉教育委員会の『鎌倉街道上道』の研究発表があるが、両者とも結論としては近似しているので、近くの市や町を包括する広域調査をした『鎌倉街道上道』によることとする。
図3-16 伝承鎌倉古道
「若葉台遺跡と周辺の古道」より
町屋を通る鎌倉街道の他に次の伝承がある。
(一)五味ケ谷と三ツ木の一部に、古街道の伝承が残されている。三ツ木には部分的に掘割状の遺構と推定される地形が認められ、また、その道沿いに十三塚の一部が残されており、古い道の一つであると考えられる。
(二)下広谷道 坂戸市内には、鎌倉街道の他に、古道の伝承が次のような伝承で残されている。
川越市下広谷から、坂戸市青木を通り、赤尾地区の北で越辺川を渡河する道筋である。下広谷から南の方向へは、的場を通り、入間川左岸を柏原へ至り、所沢方面から来る堀兼道に合流する。
赤尾地区より北は、東松山市に入ると古道伝承はないが、次に述べる片柳道に下野本付近で合流するとも考えられる。
(三)片柳道 鶴ケ島町藤金新田から、坂戸市関間を通り、筑波大学付属高等学校の敷地を抜け、片柳耕地から上吉田を経て、東松山市田木に至るものである。田木より北は、大里郡冑(かぶと)山、熊谷市村岡を経て、本庄市五十子(いかっこ)あるいは上野国新田方面に至る道筋で、南北朝以降、軍忠状や着到状にしばしば表われてくる。両道筋とも、沿線には中世館跡や古代寺院跡などがあり、古くからの道と考えられる。