第一節 在家の由来

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 在家(ざいけ)とは「在にある家」ということであるが、ここにいう在家は、単に田舎の農家をさすのではない。平安時代後期から、室町時代にかけて存在した特殊な農民をさす言葉である。この農民は地頭的在地領主が、領内の農民の住居(屋敷)と、それに付属した耕地を一括して把握し、在家役を賦課する対象としたものである。
 その由来は、律令時代の税制は、租・庸・調を中心にした個別に人身を支配する体系であったのであるが、それが崩壊して、戸籍・計帳が作られなくなり、個別人身賦課が不可能になった。それに代って、領主の課税は次第に田地中心の反別賦課に移行したのであった。
 租は田租であり、土地の面積に応じて、その収穫物を現物納する制度であるから、土地台帳が存在する限り、反別賦課は可能である。しかし、庸と調とは人頭税である。それを賦課するための基本台帳である戸籍や計帳が作られなくなると、庸と調とは賦課することは困難となる。
 その状況に対応するために生れたのが在家体制である。領主は田地からは年貢・加地子を取り、庸・調の代りには、在家の住居(屋敷)と畠地を一括して在家役を収取した。
 在家役賦課の単位を「在家一宇(う)」という。宇とは家屋の意味だから、農家一軒ということである。しかし、農家が一軒ぽつんとあるということではない。農業経営の一個の経営単位のことである。在家の主人のもとに数戸の家が従属して住む場合、それらは全体として一在家となる。
 在家の負担する在家役としては公事(くじ)と夫役(ぶやく)の二種類ある。
公事 畠地の生産物としては、布(ぬの)(※註1)・苧(からむし)(※註2)・茄子(なす)・瓜(うり)(※註3)などを領主に納入する。

 〔註〕
(1) 絹に対し、植物繊維で織った織物の総称。麻・苧・藤・葛(くず)・楮(こうぞ)などの繊維を用いた。麻布・葛布・木綿(ゆう)(楮の皮)・藤布などがある。

(2) 茎の皮から繊維をとる。越後縮・越後上布などに用いる。

(3) 青瓜・白瓜・黄瓜などがある。

夫役 人夫役のこと。第一に重要な労働は領主直営田の耕作に従事して、草取・草刈・麦刈・米舂(こめつき)などの労働に服することである。その他、領主館(やかた)の警備、堤防・池溝の土木工事、年貢の運搬などである。

 在家の田地については、在家に付属しないのが原則であるが、これは在家が田地を耕作しないということではない。領主の田地を請作(※)しており、年貢・加地子を納めているのである。ただ、田地は反別賦課であり、在家役は在家別であるから、別箇の租税賦課体系に属しているのである。
 それで、在家が売買・譲与される場合には、在家と田地とは切り離されて記載されているのが常である。
※ 請作とは、農民が領主に請うて、土地を宛行(あておこな)われて耕作すること。小作に似ているが、この場合、領主と農民とは隷属関係である。

 在家が売買・譲与・寄進の対象となることは先に述べたが、越生(おごせ)の古刹法恩寺には古来多くの在家が在家主から寄進されている。「報恩寺年譜」から、そのうちの二例を挙げると次のようである。
 〔第一例〕
後村上天皇貞和(じようわ)二年丙戌=正平(しようへい)元年(一三四六)卯月(四月)二十五日、忠親(越生兵庫助)知行注文(※註1)を以て、墾田(※註2)を寄附す。曰(いう)
入西(につさい)郡小代(しようだい)郷国延名(みよう)(※註3)知行分

一、田一町四段 畠(※註4)穂町二段 元応二年(一三二〇)三月五日 小代右馬次郎伊行沽却地(※註5)

一、田九段 元応元年九月二十八日 小代右馬次郎沽却地

一、田八段 嘉暦三年(一三二八)七月十七日 小代同前

一、田一町一段穂町畠一所 同七月二十七日 小代同前

一、田一町一段穂町一所 同十二月二日 小代同前

一、田二段穂町 同四年三月二日 小代同前

一、田三段 同年四月二十二日 小代同前

一、田二段 沼(※註6)一所 同三年七月十七日 小代同前

一、一宇新三郎入道(※註7)在家 元徳二年(一三三〇)十月二十三日 小代同前

一、一宇大門三郎太郎入道在家 同三年二月二十二日 小代同前

一、一宇四郎五郎家跡(※註8)

一、同名村内小代又三郎入道(※註9)跡等 證文 別ニ有リ

〔第二例〕
同(後村上天皇)吾那入道寄進状文に云う

吾那式部丞光泰(みつやす)(※註10)申す。

武蔵国入西郡越生郷是永名(みょう)(※註11)内在家弐宇
同郷水口田(※註12)内窪田弐段
同郷谷賀俣村内田畠在家弐宇
同郡浅羽郷内金田在家一宇 田畠
高麗郡吾那村内 在家弐宇
安堵(あんど)(※註13)の事、譲状の旨に任(まか)せ、相伝知行に当り相違なく候。申沙汰あるべく候也。恐惶謹言

 
  〔註〕
(1) 知行は領地を支配すること、注文は事物の明細を書いた上申書。

(2) 新たに開墾した田地。

(3) 坂戸市上吉田の付近に比定される。「名(みょう)」は荘園・国衙領の賦課の単位であるが、それがいつしか混淆して、中世には一国の内部を郡に分ち、郡のうちに庄をおき、庄のうちに名を立て、郡―庄―名と呼ぶようになった。

(4) 水辺の小地を徐々に開墾し、私領とした田畠、新開と同じ。

(5) 売りはらうこと。沽は売に等しい。

(6) 沼は農業経営に不可欠の水源地である。

(7) 新三郎入道・大門三郎太郎・四郎五郎は、所従とか郎党とかいわれる地位にあって、地頭の佃(つくだ)を耕作した。

(8) 「作人不定」という意味で、特定の請作者が決定していない。

(9) 小代又三郎入道は、家の子・郎等といわれる人であろう。

(10) 越生左衛門光泰のこと。

(11) 越生町の一部。

(12) 宝治(ほうじ)元年(一二四七)越生有高譲状に「越生郷台の屋敷ならびに水口の田」とあるから、越生町にあったのであろう。

(13) 武士や社寺の所領を保証し、確認すること。