第三節 地名に残る在家

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 在家という百姓は近世になると消滅したが、地名としては現在も残存している。図-17は鶴ケ島町内および近郊の小字を示す。

図3-17 町内および近郊の在家分布図

坂戸市 戸口 在家前

同 金田 新井在家

同 北浅羽 高在家

同 浅羽 在家(橋場のお大尽の家の近く、江戸道あたりと伝える。)

同 成願寺 半在家

同 塚崎 田中在家

越生町 和田 前在家

毛呂山町 滝ノ入 中在家

鶴ケ島町五味ケ谷 在家

同 三ツ木 小在家

川越市 下広谷 在家

記録に残る在家
春日原(カスガハラ)庄広瀬郷      狭山市(旧水富村広瀬)
入西郡小代郷国延名    坂戸市上吉田付近
 同 浅羽郷金田      同 金田
 同 越生郷是永名    越生町
 同 越生郷上野村辻在家 越生町上野
 同 越生郷鹿ノ下    越生町鹿ノ下
 同  同 山田村     同 山田
 同  同 栗坪      同 栗坪
 同  同 谷賀俣村    不明
 同  同 釜土場     不明
 同  同 糟垣内土    不明
 高藤郡吾那村高藤端    不明
                 (以上、「報恩寺年譜」)
 武蔵国槫(くれ)沼       坂戸市横沼
「寛喜四年(一二三二)二月二十六日、武蔵国槫沼大破するの間、修固せしむべきの由、便宜の地頭に仰せらるべきの旨定めらる。(中略)在家別に俵(たわら)ニこれを充(あ)つべし」(『吾妻鏡』第廿八)。槫(くれ)沼とあるが、『縣史』第三巻は他に該当する地名がないので、横沼の誤りであろうと推定している。

 〔参考文献〕
誉田慶恩「東国在家」
永原慶二「在家の歴史的性格とその進化について」
豊田実「武士団と在家」