1 中世墓地の発見

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 昭和四八年から五〇年にかけて、二年間、太田ケ谷字向(むかい)にある通称「お寺山」を発掘調査した。その結果、このお寺山は鎌倉中期から江戸中期にかけての、庶民の墓地であることが判明した。
 これは非常に貴重な発見であった。それは中世の墓地は今まで全国的にほとんど発見されたことがなかったからである。この発見で中世の庶民がどのような形で葬儀を営んだかが明らかになった。
 葬式は、およそ地球上に人間が出現して以来、いつの世でもくり返し行われ、死人の遺骸を処理したのであった。ただ、その処理の方法は、時代により、また場所によっていろいろちがっていた。そのちがいは、それぞれの土地に生きた人々の死に対する考え方なり、来世観の相異を反映したものである。この度発見された遺構、遺物によって、鎌倉時代中期から江戸初期までの太田ケ谷に住んでいた人びとの精神の歴史をあとづける上に、たいへん役立つのである。
 ところで、中世の墓地の発見されることの稀なことについては、柳田国男さんの「葬制の沿革について」の一節を引用しよう。「如何なる古い村にも、中世以前の墓地というものが無い。生れては死んだ人の数の莫大なのに比べて、今存する埋葬所はほんの算(かぞ)える程しかない。石に亡者の名を刻むようになったのは、文字が一通り普及した後だから、人が以前の跡を忘れてしまったかとも考えられるが、まだそういう場所は偶然にも発見されていない。」
 これは柳田国男さんが昭和初年に全国調査をした結果(人類学雑誌44―6)である。