寺と墓場とは、当初から必ず結びつかなければならなかったのであろうか。
寺の由緒がどんなに古くても、その寺が創建される前には当然寺はなかったはずである。例えば、古寺といわれる寺院では、よく大同(だいどう)二年(八〇二)創立という伝承をもつが、そこでは大同以前にはもちろん寺はなかったはずである。寺での葬式ができないとすれば、どういう葬法が行われたのであろうか。
町内の寺院はいずれも創建が新しい。
町内の寺院の創立年代を一覧すると、次のようである。
藤金法昌寺 慶長元年(一五九六)創建
上広谷正音寺 弘治元年(一五五五)〃
三ツ木慈眼寺 永正二年(一五〇五)開山示寂
高倉高福寺 元禄二年(一六九九) 〃
太田ケ谷万福寺(※註1) 不明
脚折善能寺 不明
〔註〕
(1) お寺山で万福寺が火災で消失したとの伝承は、それを裏づける多量の炭化材が発見されなかったため、お寺山は墓地としての役目以外は断定できなかった(「発掘調査報告書」二九四ページ)。やはりお寺山は中世の墓地であった。
江戸時代は慶長八年(一六〇三)から始まるから、元禄創建の一寺と、不明の二寺を除くと、残る三寺はいずれも江戸から遠くさかのぼらない時期に創建されたものである。
寺もなく、従って寺内に葬地をもたない時代には、われわれの祖先はどんな方式で葬儀を営んだのであろうか。
この問題の解答は、仏教民俗史家や、民族学者の意見を聞くことから始めなければならないと思われる。先ず、仏教学者の意見を聞こう。
駒沢大学におられた、故圭室諦成(たまむろたいじょう)師は『葬式仏教』で次のように述べておられる。
墓は一般に、部落から離れた山辺・野辺・海辺などに設けられることが多かった。寺院の境内に墓を設けることは、室町時代の後期から、庶民の墓地もそこに設けられるようになった。死の忌(い)み、死の汚(けが)れを怖(おそ)れる気持の強い日本においては、死骸の処置は厄介(やっかい)な問題であった。とにかく古くは、墓は人の住居から離れたところに設けられたが、そこに墓堂が建てられて、寺院がしだいに墓地を管掌するようになった。
庶民の葬地に石碑をたてるのは江戸時代のことで、その歴史はきわめて新しい。古くは、手頃の石を一つのせておくとか、木を植えておくとかする程度で、それすらしないで埋葬した場所はすぐわからなくなることが多かった。だが、霊魂をまつるたびごとに、生木(なまき)などを立てていたのだが、木の卒塔婆(そとば)となり、板碑となり、そして今日に見るような石碑にまでなった。
次に、民俗学者柳田国男に、わが国の死者の霊魂観について語ってもらおう。
人間は、その死とともに、霊魂がその肉体から離れ、肉体が消滅しても霊魂は永く存続するものと信じられている。時には生存中に霊魂が肉体から脱け出ることもある。極度に驚いたり、肉体が衰弱したりした場合も肉体を抜け出ることもある。
臨終(りんじゅう)の際の魂呼(たまよ)びの習俗は、単に離れてゆく霊魂を鎮(しず)めて呼び戻そうとするばかりではない。落ちつくべき場所に落ちつかせるための手段としても必要である。放置されてさ迷い廻る霊魂は、世の中へさまざまな禍(わざわい)をもたらす怖(おそ)れがある。ことに怨(うら)みをのんで死んだり、尋常でない死に方をした人の霊魂は、そういう危険が濃厚で、これをまつり鎮(しず)めるには特別な儀礼を要する。また霊魂は、いかなる者でも、特別に親しく同じ土地に住む同齢者を引き寄せようとするものとして、これも特別な儀法を講じられる。
死んでから時がたたない霊魂は、これを祀(まつ)る家の仏壇にしても、古い霊魂と区別して、特別なまつりをする。
霊魂をいったん遺骸の葬地へ送りこんだ場合でも、ある時を経てから、霊魂だけをもっと清らかな場所へ移してまつる風習も広く各地で行われる。これを両墓制という。
三十三年とか、五十年とか、一定の年数を経た霊魂は、もはや個々にまつりを受けることなく、ただ祖霊として、一定の時期に共同のまつりの対象となることは一般の習俗である。(『先祖の話』「葬制の沿革について」)
人が死んで、魂と肉体とが分離するという考えは、魂の存在を信ずる限り、今の人にも理解できることである。死者の魂は四九日までは、屋根の棟(むね)にいるとか、「軒先三寸とはなれない所にいる」とかいう伝承が受けつがれている。そして、四九日がすめば、霊魂は十万億土の向うの浄土にゆくとされている。