墓のことを古い言葉でオキツスタヘなどといったが、霊魂が抜け出してしまったあとの肉体はナキガラにすぎないのである。
われわれの祖先は、古代エジプト人のように、亡霊の平安のために、その遺骸の保存を必要と認める民族ではなかった。むしろ肉身が痛み損じて活用に適しなくなると、少しでも早く、その内にある霊魂を引き離して、自由を得させようとしたのであった。(柳田国男「葬制の沿革について」)
この町の近くで、両墓制を現在も行っているか、あるいは最近まで行っていた墓地は次の通りである。
下鹿山・光音寺 寺内に詣墓がある。埋墓は原宿柿ケ谷戸の前にあり、念仏塚という。
根岸・明光寺 タッチョウバカ(ステバカ)とヒキバカがある。
狭山市鵜ノ木・長栄寺 タッチョウバカとヒキバカがある。
毛呂山町川角 卵塔婆とヒキバカがある。
坂戸市上浅羽の藤野・粟生田墓地
円墳は詣り墓で、ステバカは裏手の川ぶちにある。ただし明治二〇年頃まで。
入間市仏子(ぶし)・曹洞宗高正寺 今は単墓だが元はヒキバカとイケバカの区別があった。
同 野田・曹洞宗長徳寺 仏子と同じく両墓制の名残が見られる。
以上述べたことによって、このお寺山で発見された葬送方式は、特殊な例外ではなく、江戸初期以前には、一般にどこの村でも行われた葬法であったことがわかる。
次に、静岡県伊豆半島で偶然に発見された中世の墓地の状況を見ることにしよう。
松崎海岸の一部に、山裾の畑地が崩れて、人骨が露出したことがある。山裾はすべて畑地であったから、人骨の保存はすこぶる良好であり、それらが屈葬(くっそう)(死者の手足を折り曲げて埋葬)または伸葬(両足をまっすぐ伸ばした姿勢で埋葬)の形で埋葬したものと知られた。一メートル余の深さに屍(しかばね)を納め、土を覆い埋めたもので、埋骨と埋骨との間隔は、一メートルくらいが普通であった。これらの人骨には、数枚の銅銭をともなうもののある以外には、副葬品はなかった。この銅銭により、室町期の庶民の墓と知られた。これらの墓には、造塔は一基もなかった。」(赤星直忠「石造墳墓と矢倉」)
太田ケ谷のお寺山の墓地は、このような葬法で、近世中期以前に、庶民の葬られた場所である。
先述のように、ここに墓地がある以上、必らず寺があったにちがいないというのが、土地の伝承であるが、これは、寺が先にあったのか、それとも墓が先だったかという問題であって、寺が先の場合は寺墓となり、墓が先の場合は墓寺となる。(竹田聴洲「墓寺と寺墓」)
しかし、お寺山の場合、お寺山に寺はないのだから、この問題と関係ないと思われる。ただ、江戸初期までは、このお寺山のような送葬方式が全国的に一般であるが、その墓地の発見されることがなかったため、現代人にとっては奇異な送葬方式とみられただけである。
それにしても、今回のお寺山発掘の意義は大きい。わが鶴ケ島町の各集落で、近世以前には庶民はどこに葬られたのであろうか。先述の三ツ木の寺山(塚場ともいう)が埋葬地として確認されるが、それ以外には、次の三か所が、近世以前の墓場ではないかと想像されるだけである。
脚折、池の台「墓場山」
藤金長龍寺跡「お寺山」
上新田「葉樺(はかば)山」
(高倉「寺山」)
平地でありながら「山」と呼ぶのは、山が葬地であったことと関連するという。穴掘役のことをヤマユキというのは、その一例である。