第三節 墓地と石碑

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 お寺山の墓地としての役目が、江戸時代中期に終末を告げたことは、以上の記述の通りであるが、太田ケ谷地区では、その後も多くの人々が死をむかえたはずである。それらの人々はどこに葬られたのであろうか。
 太田ケ谷村の菩提寺万福寺と、内野家の菩提寺常福寺には、江戸時代初期からぼつぼつ石碑が建てられ始めたところをみると、墓地は菩提寺の境内に次第に移っていったのであろう。この二つの寺の石碑を調べると次のようである。
表3-4 江戸初期 万福寺 常福寺 石塔時代別一覧表
年号西暦万福寺常福寺
寛永二1625
  三1626
承応二1653
万治三1660
寛文二1662
  九1669
  十一1671
延宝二1674
  三1675
  四1676
貞享一1684
  三1686
元禄三1690
  四1691
  十1697
  十三1700
宝永一1704
  四1707
  六1709
  七1710
  八1711
正徳一1711
  二1712
  三1713
  五1715
  六1716
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〔備考〕 1)享保以降は省略する
     2)○△は各寺院の石碑

 一般に庶民が石碑を建てるようになったのは、近世中期からといわれ、各地の墓地に林立する石碑の大半は、元禄ないし享保以後のもので、それ以前のものは急激に数を減じ、中世以前のものは特別の場所以外にはほとんど見られない。また種類からいっても、中世以前の石碑は、貴族・武士・僧侶などにいくらか建てられているほか、多くは供養塔である。供養塔とは、宝塔(ほうとう)・層塔・五輪塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)などで、本来は死者の苦を除き、冥福を祈るために、生存者が善事を後から追い行って、その功徳を助けるためのもので、その人の記念碑や墓標として建てたものではなかった。死人の埋葬地に石塔を建てることは、当然その死人の墓標の意味をもつことにはなるが、それでも江戸初期には、墓石の上部に小さな阿弥陀如来の梵字が彫られ、不完全ながらも供養の片鱗が残されていた。しかし現代の墓石になると、「何某之墓」などと書いてあり、その上部には、仏菩薩の梵字の代りに家紋が彫られている。こうなると、中世の石塔とは全く性格を異にしたものとなってしまったのである。
 それでは、現代の墓石は単なる墓標にすぎないのかというと、そうでもない。やはり礼拝の対象であり、「開眼(かいげん)」という宗教的行為を経て、供養塔としての性格をも合せもつものである。
 
 それにしても、お寺山には供養塔らしいものは一基も発見されなかった。ただし、応永一五年(一四〇八)と延文年間(一三五六~六六)の板碑が発掘されたが、板碑の性質上、初めからここに埋められていたわけではない。
 とすれば、江戸初期以前には、あったのは埋め墓だけで、死体は野山に埋め放しで、あとは顧みないというのが、習俗であったのであろうか。これは当然起こる疑問である。この疑問に答える鍵は両墓制の霊魂観のなかにある。
 この問題については、民族学者たちのすぐれた研究の成果があるので、それをまとめて記すことにする。
 両墓制の基本的な考え方は、霊肉分離と死穢(しえ)観念である。霊肉分離とは、人間はその死とともに、霊魂は肉体から離れ、肉体が消滅しても霊魂だけは末永く存続するという考え方である。このさい、残った遺骸は最も穢(けが)らわしく、忌むべきものとされた。これが死穢観念である。霊魂は遺骸とともに葬地へ送りこまれるが、死霊(しりょう)はたたりやすく、人につきやすいものと考えられていた。そして、死後の一定期間は肉体と遊離したまま、生家を中心に、生死の間をさまようものとされた。従って、遺族としては、その期間は特に安静にして、死霊の安定することが必要であった。仏教が伝来して、死霊・祖霊を管理するようになってからは、この時期の一つの区切りを、中陰ないし一周忌とされた。その後、十三仏事の普及とともに、三三年忌をもって死霊はそれぞれの個性を失って、おだやかな精霊となり、祖霊に帰一するものと考えられた(『葬式仏教』)。こうして完全に安定しなくても、中陰あるいは一周忌には、霊魂を埋め墓から、菩提寺内の墓へ迎えて供養するのであった。それで、詣り墓の下には遺骸は埋めてなく、ただ供養するだけの墓石である。
 しかし今は、菩提寺に移されていない霊魂の行方を探し求めているのである。現在も両墓制の残る地方で、菩提寺境内の外に詣り墓を設けるところがあるが、「霊験あらたかな神仏をまつる浄地に霊魂を迎える」、というのが一般的である。そうすると、浄地と菩提寺との関係はどうなるのであろうか。
 私見によると、かなり古くから村々にはそうした浄地が存在した。死者の霊魂にはその浄地が落ち着く先であった。未来永却の霊魂の住み家であった。遺族は季節ごとにその浄地に詣でて、死者の霊をとむらっていた。時代がたつに従って、そこに石塔がたち、堂が建てられ、ついには今日見るような寺院が建てられるようになったのであろう。今日の寺の境内はかつての霊魂の安住する霊地であったということになる。
 以上、諸学者の研究を要約して結論を出すと次のようである。
 お寺山遺跡は近世中期までの埋め墓であり詣り墓に相当する浄地は万福寺の境内である。
  〔参照文献〕
柳田国男「先祖の話」・「葬制の沿革について」、圭室諦成(たまむろだいじょう)『葬式仏教』、五来重『仏教と民俗』、竹田・高取『日本人の信仰』、『先祖供養と葬送儀礼』、最上孝敬『詣り墓』、井之口章次『仏教以前』、森浩一『墓地』、最上孝敬『霊魂の行方』

 〔付言〕
(一)一般に庶民の近世中期までの墓石が築造されていないことについて、さまざまな道聴塗説がある。坂戸市戸口の故老は、戸口の菩提寺に古い墓石がないのは、住職のなかに大酒呑みがいて酒癖がわるく、酔っぱらうと墓石をかついで片っぱしから高麗川に投げとばしたからだという。それが真実なら、日本中の僧侶がみんな酒呑みで、酔っぱらって墓石をどこかに投げとばしたことになる。

また、塚越の鎌倉時代以来の旧家だという家の主人は、自分の家は元禄頃にどこからか引越したのであろうか、古い墓石が見当らないという。その家の墓地へ行ってみると、歴代のみごとな五輪塔が五基ばかり、ずらりと並んでいた。

(二)江戸時代の墓碑には次のようなものがある。

(1)舟後光型地蔵彫り石碑で仏像の背後に光背があり、舟形をしたもの。

(2)板碑型石碑 圭(けい)状(上が尖って、下が四角)にとがり、下部よりも一段突き出ているもの。

(3)香匣(こうばこ)型石碑 香を入れる箱に似て、四角の石碑。幕末より現在まで一般庶民の石碑。

(4)笠付石碑 方柱形の上に、唐破風(からはふ)のついた蓋(ふた)を載せてある。位牌(いはい)からきたものと思われる。

(5)無縫(むほう)塔 卵塔(らんとう)ともいう。四角か八角の台座の上に、塔身が卵形をした石塔で、僧侶の墓碑に用いられる。