第一節 板碑とは何か

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 前章で、江戸初期までには石塔は供養塔としてのみ造立され、現在、墓地に数多く林立する墓石は、それ以後になって造立されたものであることを述べたのであるが、墓石が出現する前に突然姿を見せなくなったのは板碑である。
 板碑はもちろん供養塔の一種で、本来は死者の墓標として作られたものではない。板碑が最初に出現したのは、大里郡江南村須賀広の大沼公園にある嘉禄(かろく)三年(一二二七)のもので、鎌倉初期である。わが国最古の板碑といわれる。また、最後の板碑といわれるものは、戸田市新曾妙見寺にある慶長三年(一五九八)のものである。(『埼玉県板石塔婆調査報告書』I)三七一年間もこの板碑は造立されたのである。
 板碑は北は青森から南は鹿児島まで造立されているが、関東地方のものは、板石塔婆とも青石塔婆ともいわれる。それは、石の板でつくられた卒塔婆(そとば)、すなわち供養のための塔を意味するからであり、またその材料が青色をした緑泥片岩(りょくでいへんがん)、つまり青石だからである。板のように薄く剥(は)がれやすく、細工のしやすい緑泥片岩は、荒川の左岸にある秩父郡野上町樋口から出たものが多く用いられたが、比企郡小川町下里の槻川べりに産する下里石もまた使用された。
 さて、当町内では一一五基の板碑が確認されているが、その多くは破損した断碑である。そのうちで比較的保存のよい五味ケ谷椿山墓地の板碑を紹介しよう。もつとも、これは坂戸飛行場造成のさい地中から掘り出され、のち現在地へ移されたものである。高さ七〇センチ、幅二四・五センチ、厚さ三センチの青石でつくられたこの板碑は、「三角帽子に鉢巻きして」といわれるように、頭部は三角形に尖(とが)がり、その下には横に深く二条の切れこみが走っているのが板碑の大きな特色である。更にその下には、蓮の花の台座に大きく梵字(ぼんじ)で阿弥陀(あみだ)如来を示すキリークの字が彫りこまれている。これまた板碑の大きな特徴である。この他にも仏の図像を彫りだしたものもあるが、梵字で主尊を示すのが一般的であり、特に阿弥陀を示すキリークが多い。

五味ケ谷の応安板碑

 この板碑造立の年紀(年月日)は応安六年(一三七三)三月十六日となっているが、これは足利三代将軍義満の時代で、南北朝兵乱の絶えまなかった頃である。偈(げ)文は「光明遍く十方世界を照し、念仏の衆生を摂取(おさめとる)して捨てたまわず」と、浄土三部経の一つである「観無量寿経」の真身観にその出典を求めるもので、この場合、信仰の対象は阿弥陀如来であり、造立の趣旨は死者の追善供養であると推察する。供養者は覚圓(かくえん)という人物であるが、おそらく広谷郷の住人であろう。