図3-19 埼玉県内の板石塔婆の年代分布
『埼玉県板石塔婆調査報告書』Ⅰより
板碑造立のピークに達した一三六〇年は、正平一六年にあたるのであるが、この年代は南北朝対立の激しい合戦の行われた年代である。多数の武蔵武士がその合戦に参加して討死し、遺族によって供養のため造立された板碑であろう。
鶴ケ島町内には一一五基の板碑が現存するが、そのうち紀年の明らかなものは五八基あり、年号だけ読みとれるものが四基ある。合わせて六二基の年代分布をみると図-20となる。
図3-20 町内の板碑10年毎の造立基数
『鶴ケ島町の板碑』より
最古の板碑は、脚折蔵前墓地出土の正応元年(一二八八)の阿弥陀一尊を種子としたものである。最新のものは、太田ケ谷向寺山出土の天文六年(一五三七)の阿弥陀三尊板碑である。
この年代分布を見ると、一三六〇年代と、それにつづく七〇年が、それぞれ六基、九基と突出して多数を占め、また、その年代を含む一四世紀後半が二五基と全体の四〇パーセントを占めている。
これらの板碑は、県内同時代の板碑と同じく、南朝・北朝いずれかに属して、激しく戦ったあげく討死した武士が、この町内の住人であって、遺族が追善碑として造立したものであろう。この時代の板碑には、逆修のため造立したものはわずか一基しかないところをみても、単なる極楽往生を祈願するための造立ではなかったのである。