青石塔婆の流行した鎌倉・南北朝・室町の各時代の仏教各派は、宗団というほど明確な団体ではなかった。人びとは自分の思想信仰によって、宗派的な概念をもっていただけで、寺院でも、江戸時代のように、必ず一宗派に固執したのではなかったのである。広い意味の、仏教を修行する道場であって、そこへ来る人びとの宗派信仰の異るに従って、浄土教になったり、現世教になったりした。また、自力宗教にも他力宗教にも、天台宗にも真言宗にも変化した。それで、一枚の板碑が必ずしも一宗派に属すると断定できるものではない。弥陀の種子があっても、これは、藤原時代末期から鎌倉初期へかけての日本仏教には、各宗に通じた信仰である。浄土宗の一方にだけ限るわけにはいかない。むしろ、浄土教の信仰は仏教の全体に通じるもので、当時勢力のあった天台・真言を始め、禅宗の臨済も曹洞もこの信仰をもっていた。鎌倉時代に極めて理知的な頭脳をもって、理想境を実現することを説いた曹洞宗の道元でも、亡父の菩提を弔う語を見ると、やはり西方浄土往生のことを述べている。念仏無間(むげん)と誹(そし)った日蓮宗徒も、やはり死んだ子供のためには極楽世界の存在を夢幻の間に見たであろう。(「武蔵野の青石塔婆」『東京都文化財調査報告集』第二集)。
つまり板碑の造立者は必ずしも自己の宗派的立場にとらわれず、極めて融通無碍(むげ)な立場で造立したわけである。
また、有元修一氏は「板碑」のなかで、「浄土三宗派の影響下に生れたと思われる板碑は数えるほどしかなく、他の宗派についても、一六世紀に大量にあらわれる日蓮宗板碑を除けば、若干の禅宗系板碑があるにすぎない」と述べている。