日本最大の板碑
その偈は「願わくは、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、われと生きる者たち(衆生)と皆ともに、仏道を成(じよう)(完成)ぜんことを」(法華経化誠諭品第七)と刻む。
南北朝時代、新田方の阿仁基保がこの地に仲山城を築いたが、延文(えんぶん)二年(一三五七)一〇月、二代直家の時代、峠を越えた隣地秋山城主に攻められ落城した。直家は単騎樋口河原に落ちのびようとしたが、途中、敵の矢にあたり落命した。それより前、二児を伴って能登国へ逃れていた奥方芳野御前は、亡夫の一三年忌にこの地に帰り、供養のためこの碑を建てたといわれる。
碑面上部に宝珠三点、釈迦(バク)の梵字を蓮台の上におき、中央に応安二年(一三六九)己酉十月敬白、左右に光明真言を梵字で四行、下部に大檀那道観、比丘尼妙円・行阿、正家・正吉、結衆(けちじゆう)(※)三十五人と刻す。妙円は奥方芳野御前、正家・正吉はその子であるという。
※板碑は最初は、在地土豪の葬送儀礼の一環として始まったが、一六世紀に入るとしだいに農民層による講的な集団による造立が盛んになった。結衆がそれである。月待や庚申待の供養板碑を造立した。