もちろん、墓地や路上に放置されたままの板碑は、頑是(がんぜ)ない児童の頑具であり、大人にとっても邪魔物にすぎなかったから、風雨にさらされたあげく、終には破片となって残骸をさらす結末を迎えたこともあるだろう。
しかし、本質的には、板碑そのものの性格に帰すべきではないだろうか。
当地方で板碑が発見されるのは、農夫が桑の根などを掘り起そうとして、地中深く鍬を打ちこんだ場合、鍬の先の衝撃によって判明することが多い。しかしその場合、力いっぱい打ちこんだ鍬の先で、板碑は破壊を免れない。
それでは、板碑は何故地下深く埋もれてあるのか。その理由は謎に包まれて、決定的な解答は与えられていない。小沢国平氏はその著『板碑入門』で、四つの理由をあげている。
一、ある時期を経過したら塔婆として埋没した。
二、墓地の整理のために埋没した。
三、寺院の面目を改めるために整理した。
四、商品化したのが手持になって埋没した。
二、墓地の整理のために埋没した。
三、寺院の面目を改めるために整理した。
四、商品化したのが手持になって埋没した。
このうちの二・三・四の理由については、一部の板碑については妥当するかも知れないが、板碑全体に通ずるものとは思われない。
私見によれば、板碑はある時期を経過したとき、塔婆としての使命を全うして埋没されるのであろう。たとえば、十三仏信仰がある。その一部は現在もなお盛んに行われている供養のための仏事である。十三仏とは、人の死後、初七日から三三回忌まで、一三回の追善供養を行うため、その仏事に配当した一三の仏・菩薩のことである。すなわち、
不動明王(初七日)・釈迦如来(二七日(ふたなぬか))
文珠(もんじゅ)菩薩(三七日)・普賢(ふげん)菩薩(四七日)
地蔵菩薩(五七日)・弥勒菩薩(六七日)
薬師如来(七七日)・観音菩薩(百ヵ日)
勢至(せいし)菩薩(一周忌)・阿弥陀如来(三周忌)
阿〓(あしゅく)如来(七周忌)・大日如来(十三回忌)
虚空蔵菩薩(三十三回忌)
この十三仏を本尊として、三三年間に一三回の追善供養を怠りなく勤めると、死者は成仏(じょうぶつ)できるのである。
しかし、三三年忌まで一三回の仏事を一年間に短縮して行う逆修供養もある。(圭室諦成『葬式仏教』)
現在、追善のために墳墓に建てる〝板そとば〟は、期日を経過すると焼却するのであるが、板碑の場合は焼却ができないので、地中深く埋没するのであろう。
板碑は多く次のような状態で発見される。
一、地下四〇ないし五〇センチの深さに埋めてあるのが通常である。
二、北向きに、ていねいに横たえてあり、無雑作に投棄したとは認められない。
三、発掘当初の板碑は、風雨にさらされたあとがない。