表3-6 町内板碑分布表 |
大字名 | 基数 |
五味ケ谷 | 8 |
上広谷 | 10 |
太田ケ谷 | 4 |
藤金 | 22 |
三ッ木 | 19 |
脚折 | 36 |
高倉 | 10 |
上新田 | 2 |
中新田 | 2 |
下新田 | 2 |
町屋 | 0 |
鶴ケ丘 | 0 |
富士見 | 0 |
計 | 115 |
この基数は、昭和五五年の現在数である。板碑は、先述のように、地上に露出して存在するものでなく、地中深く埋没しているので、将来何らかの機会に発見されることも予想される。この数はあくまでも暫定数である。
これらの板碑は、後世の墓碑とはちがって、供養塔であり、しかも供養される対象は庶民ではない。中世の各村々には、在地土豪ともいうべき半農の武士が住んでいた。広谷村の岸田氏、太田ケ谷村の内野氏はその系図で武人たることを示すほか、脚折の田中氏・平野氏・高沢氏・斎藤氏・高倉村の小川氏、三ツ木村の吉沢氏などはかつては武士であったという伝承をもつ。当町内の板碑が、正平二〇年(一三六五)から応永二年(一三九五)の三〇年間に突出して多数を占めるのは、南北朝激闘の時代に戦いに参加した武士の多かったことを示すものである。
上新田以下の大字は、江戸時代以後の開発地であるから、当然、板碑は造立されなかったわけである。ただし、上中下の三新田に二基ずつ保管されていたのは、出土の現場から移されたのであろう。
〔参考文献〕
服部清道『板碑概説』
小沢国平『板碑概説』
鶴ケ島町史編さん室『鶴ケ島町の板碑』
服部清道『板碑概説』
小沢国平『板碑概説』
鶴ケ島町史編さん室『鶴ケ島町の板碑』