第一〇章 後北条時代

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 南北朝の動乱もようやく収束して、しばらくは安定した世を送ったのであるが、応仁の乱から再び争乱と動揺の戦国時代へと突入したのであった。
 一六世紀前半には、京都を中心とする近畿地方などでは、なお室町幕府の権威をめぐって、守護大名たちの権力争いがつづいていた。しかし、その他の各地では、自分の力で作り上げた領国で、独自の支配を行う新しい地方権力がぞくぞくと誕生した。これが戦国大名といわれるものである。
 古い権威が通用しなくなった戦国時代に、戦国大名としてのし上るためには、大名個人の軍事指導者・領国支配者としての能力が大きくものをいった。一介の牢人から関東地方の覇権を確立する基礎を築いた北条早雲などは、その雄たるものであった。
 関東のその時代の状勢をみると、永享一一年(一四三九)には、京都の幕府に反抗した関東公方足利持氏が、関東管領の上杉氏に滅ぼされるという永享の乱があった。この乱には坂戸の浅羽下総守も持氏に味方した武州一揆のリーダーとして、持氏に殉じて自刃したのであるが、この乱の平定後はしばらく平和が保たれていた。ところが、それから一〇年後の宝徳元年(一四四九)、持氏の子の成氏(しげうじ)が関東公方に迎えられて鎌倉に帰ると急に雲行きが怪しくなった。成氏が父持氏の旧臣たちと手を結んで、父を殺した上杉氏と敵対するようになったからである。享徳三年(一四五四)成氏が上杉憲実(のりざね)の嗣子憲忠(のりただ)を誘殺したことから戦火はまたもや燃え上った。山内(やまのうち)上杉氏の家宰(執事)だった長尾景仲らは、憲忠の弟房顕(ふさあき)を擁して成氏に対抗した。幕府も駿河守護今川憲忠(のりただ)に命じて成氏を討たせた。すると成氏は鎌倉を逃れて下総古河に落ちのびた。そしてその地に本拠を構えた。それ以後、古河公方と呼ばれた。
 その頃、管領上杉氏は山内家と扇谷(おおぎがやつ)家に分れていた。山内家は上州白井城(北群馬郡子持村)に、扇谷家は武州河越城に本拠を構えていた。両上杉氏とも実権は家宰(執事)が握っていた。山内家では長尾氏が、扇谷家では太田氏が主家に代って、政治的に軍事的に実力を発揮した。
 成氏が古河に本拠を定めると、幕府は早速成氏討伐の準備を進めた。扇谷上杉氏は家宰の太田道灌に命じて、河越城の修理と、その支城として江戸城の構築を行わせた。
 長禄(ちょうろく)元年(一四五七)、こうした状勢下の関東へ、古河公方成氏を誅伐して関東を平定せよという使命をおびて、将軍義政の弟政知(まさとも)が下ってきた。ところが、鎌倉は戦乱のため焦土に帰していたためと、東国武士のなかには成氏を奉じてこれに対抗する者が多く、鎌倉入りをあきらめて、伊豆の堀越に本拠を構えた。そこで政知は堀越公方と言われた。こうして二人の公方が出現したわけであるが、政知は将軍から与えられた管下一二か国の警察権などの権限も行使できず、結局は伊豆の一地方政権たるにとどまった。
 その後、関東で実権を握った両上杉家と、反幕行動をつづける古河公方との戦いは一進一退を繰返したが、そのあいだに、両上杉家間で抗争したり、諸大名家内部が分裂して争ったりして、複雑な紛争・闘争となった。ことにこの争乱をいっそう激化したのは、山内上杉の家宰長尾氏が分裂して、一族の戦いとなったことである。こうして、長享(ちょうきょう)二年(一四八八)以来、両者の戦いが各地で展開された。この争いを関東大乱という。
 一方、京都でも応仁元年(一四六七)には応仁の乱が勃発し、いよいよ戦国時代へ突入した。
 この大乱では、埼玉県西部も戦場と化し、勝呂(すぐろ)原(坂戸市)・浅羽(同)・越生(おごせ)、菅谷(すがや)原(嵐山町)・高見原(小川町)で合戦が行われ、庶民は戦禍にあえいだ。『鎌倉大草紙』によると「関八州、所々にて合戦やむ時なく、おのずから修羅道の岐(ちまた)となり、人民耕作をいとなむことあたわず、飢饉して餓死におよぶもの数を知らず」という状態であった。
 伊豆の堀越公方政知は、両上杉氏が抗争しているさなか、延徳(えんとく)三年(一四九一)に死んだ。そのあとを嫡子茶々丸が継いだが、彼は父の死後直ちに、異母弟をその母とともに殺してしまった。この暴挙の上に苛政が重なり、住民の恨みをかったので、政知以来の旧臣の支持を得られず、伊豆国は混乱におちいった。

図3-21 後北条氏の領土拡大の経過
(杉山博氏作製)